・・・ 電車に乗っていてもう一つ困るのは車の響きが音楽に聴えることです。私はその響きを利用していい音楽を聴いてやろうと企てたことがありました。そんなことから不知不識に自分を不快にする敵を作っていた訳です。「あれをやろう」と思うと私は直ぐその曲・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・て、こわいことねえ、だから黙ってねんねおし』「困るね、そんな事を言っても坊にゃわからないのだからお前さえ黙ればいいんだよ』『貞坊や、坊やはお話がわからないとサ、「わかりますッ」てお言い、坊やわかりますよッて』 右の始末に候間小生・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・といって身の振り方をつけるためばかりに男子を見、石橋をたたいてみてから初めて恋をするというような態度でも困る。これは可愛らし気がなく、純な娘らしい雰囲気がなくなるからだ。恋愛は一方では、意識選択ではなく、運命であるという趣きがあるということ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・「冗談を云っちゃ困るよ。」彼は笑った。「憲兵がこしらえたらしいと云いよったぞ。」「おどかすのは、えゝかげんにしてくれ。」 彼の寝台の上には、手帳や、本や、絵葉書など、私物箱から放り出したまゝ散らかっていた。小使が局へ持って行・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・別に活計に困る訳じゃなし、奢りも致さず、偏屈でもなく、ものはよく分る、男も好し、誰が目にも良い人。そういう人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽んでいたのは極く結構な御話でした。 そこでこの人、暇具合さえ良ければ釣に出・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・日の仮り名にとどめてあわれ評判の秀才もこれよりぞ無茶となりける 試みに馬から落ちて落馬したの口調にならわば二つ寝て二ツ起きた二日の後俊雄は割前の金届けんと同伴の方へ出向きたるにこれは頂かぬそれでは困ると世間のミエが推っつやっつのあげくし・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・七「何ぞというとお前は困るとお云いだが何が困ります」内儀「何が困るたって、あなた此様に貧乏になりきりまして、実に世間体も恥かしい事で、斯様な裏長屋へ入って、あなたは平気でいらっしゃるけれども、明日食べますお米を買って炊くことが出来ま・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・「そんなことをとうさんに相談したって困るよ。とうさんは、お前、素人じゃないか。」 その日は私はわざと素気ない返事をした。これが平素なら、私は子供と一緒になって、なんとか言ってみるところだ。それほど実は私も画が好きだ。しかし私は自分の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ことに困るのは、知識で納得の行く自己道徳というものが、実はどうしてもまだ崇高荘厳というような仰ぎ見られる感情を私の心に催起しない。陳い習慣の抜殻かも知れないが、普通道徳を盲目的に追うている間は、時としてこれに似たような感じの伴うこともあった・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。 恋、かも知れなかった。二月、寒い・・・ 太宰治 「I can speak」
出典:青空文庫