・・・ 神楽坂辺をのすのには、なるほどで以て事は済むのだけれども、この道中には困却した。あまつさえ……その年は何処も陽気が悪かったので、私は腹を痛めていた。祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔い粥とも誂えかねて、朝立った福井の旅籠で、むれ際の・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・私は彼のそういう困却にただならぬ気配を見てとったのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろって石塀の上から影を消してしまってからも、彼は額に片手をあてたり尻を掻きむしったりしながら、ひどく躊躇をしていたが、やがて、口・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・先生の失敗は、私たち後輩への佳き教訓になるような気がすると、前回に於いても申述べて置いた筈であるが、そんなら一体どんな教訓になるのか、一言でいえば何か、と詰寄られると、私は困却するのである。人間、がらでない事をするな、という教訓のようでもあ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・婦人の既に年頃に達したる者が、人に接して用談は扨置き、寒暖の挨拶さえ分明ならずして、低声グツ/\、人を困却せしむるは珍らしからず。殊に病気の時など医師に対して自から自身の容態を述ぶるの法を知らず、其尋問に答うるにも羞ずるが如く恐るゝが如くに・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その実は君の余熱に感じて伝染したるものというも可なり云々と、利口に述べ立てられたらば、長者の輩も容易にこれに答うること能わずして、あるいはひそかに困却するの意味なきに非ざるべし。 その趣は、老成人が少年に向い、直接にその遊冶放蕩を責め、・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・落語をこのむ江戸庶民の感覚で、奥女中あがりを女房にした長屋の男の困却を諧謔の主題にしたものだった。奥女中だった女が、長屋ものの女房になってもまだ勿体ぶったお女中言葉をつかっている。そのみのない横柄ぶりが武士大名への諷刺として可笑しく笑わせる・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・ 日本の畳も、特別むずかしいことを知らない私たちにすれば、へりがスフで切れやすいことは困却の一つである。 木綿の生活的な美しさも、日常のなかへ再び嘗ての豊富さでかえって来ることはないだろう。 いろいろそういうところがあって、それ・・・ 宮本百合子 「生活のなかにある美について」
・・・ この節、翻訳権の問題があって、すべてのジャーナリストが困却しているとおり、すべての翻訳家・語学者は活動を閉鎖された形である。生活問題はこれらの人々を真剣にしている。そして、これまで文化の上に軍国主義的鎖国をうけて来た日本の精神を開放し・・・ 宮本百合子 「文化生産者としての自覚」
・・・けれども、駅員たちは、柵の外に困却して佇んでいるわたしたち同様、その列車がそこに出現する迄は、どこで、どんな理由で、何分おくれているのかということに就ては全然知っていなかった。待っている人々と彼等との違いは、ただ彼等はちっともそれについて心・・・ 宮本百合子 「みのりを豊かに」
出典:青空文庫