・・・この地方の蒙った惨害の話から農家一般の困窮で、老人の窮状をジャスティファイしてやりたいと思ったのである。 すると、その話の途中で、老道士は、李の方へ、顔をむけた。皺の重なり合った中に、可笑しさをこらえているような、筋肉の緊張がある。・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・しかもかくのごときはただこれ困窮の余に出でたことで、他に何等の煩悶があってでもない。この煩悶の裡に「鐘声夜半録」は成った。稿の成ると共に直ちにこれを東京に郵送して先生の校閲を願ったが、先生は一読して直ちに僕が当時の心状を看破せられた。返事は・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 例えば、背に腹はかえられず、困窮のあまり、つい台帳をごまかしたり、売上金を費消しているのを発見すると、もうそれだけで、十分馘首の口実にも保証金没収の理由にもなるのだった。 こうして、追っ払われた支店長は二三に止まらず、しかも、悪辣・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・笑い話といえばでがすな、私の同僚でそのウ、昨今の困窮にたまりかねて、愈家族と相談の結果、闇市へ立つ決心をしたちゅうことでがす。ところが闇市でこっそり拡げた風呂敷包にはローソクが二三十本、俺だけは断じて闇屋じゃないと言うたちゅう、まるで落し話・・・ 織田作之助 「世相」
・・・よしんば偶然にしてその寿命のみをたもちえても、健康と精神力とがこれにともなわないで、ながく困窮・憂苦の境におちいり、みずからたのしまず、世をも益することなく、碌々・昏々として日を送るほどならば、かえって夭死におよばぬではないか。 けだし・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・よほど落ちぶれて、困窮しているものと見えます。もともと、お洒落な子だったのですし、洗いざらしの浴衣に、千切れた兵古帯ぐるぐる巻きにして恋人に逢うくらいだったら、死んだほうがいいと思いました。さんざ思い迷って、決意しました。借衣であります。お・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・その有様を見ているうちに、さすがに私も、この弟子たちと一緒に艱難を冒して布教に歩いて来た、その忍苦困窮の日々を思い出し、不覚にも、目がしらが熱くなって来ました。かくしてあの人は宮に入り、驢馬から降りて、何思ったか、縄を拾い之を振りまわし、宮・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・私は、服装に就いて困窮する。そうして奇妙な決心をする。借衣である。私は、並より少し背が低いほうなので、こういう場合でも、なにかと不便な思いをする。私と同じくらいの背丈の人間が、これはおかしな言いかたであるが日本にひとりしかいない。それは、私・・・ 太宰治 「花燭」
・・・この大戦の期間から、それにひきつづくドイツの人々の極度に困窮した不幸になった時代、フローレンス旅行以来しばらく沈黙していたケーテの創作は再び開始された。もう六十歳に近づいて、妻として母として重ねたかずかずの悲喜の経験とますます暗い雲に光を遮・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・ほとんど倍額に近いこの予算総額は、最近における日本のインフレーションのすくいがたい悪化を物語っており、同時に一般人民の極度な経済的困窮を示している。あらゆる形で大衆課税がとりたてられ、たとえ所得税の税率がいくらか引き下げられたとしても、汽車・・・ 宮本百合子 「今日の日本の文化問題」
出典:青空文庫