一 僕は一夏を国府津の海岸に送ることになった。友人の紹介で、ある寺の一室を借りるつもりであったのだが、たずねて行って見ると、いろいろ取り込みのことがあって、この夏は客の世話が出来ないと言うので、またその住持・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「そのお正がこの春国府津へ嫁いたのです。」「それはお目出度い。」「ところが余りお目出度くないんでしてな。」「それは又?」「どういうものか折合が善くありませんで。」「それは善くない。」「それで今日来たのも、又何か持・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・というので、国府津の前川村の方へ引き移ったのだ。丁度文学界を出す時分から、私も一時漂泊の生活を送ったが、その以前に私は巌本君に勧められて、明治女学校で教えていた。北村君もそう収入が無いと思ったから、僅かばかりの自分の学校の仕事を北村君に譲っ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ これより下り坂となり、国府津近くなれば天また晴れたり。今越えし山に綿雲かゝりて其処とも見え分かず。さきの日国府津にて宿を拒まれようやくにして捜し当てたる町外れの宿に二階の絃歌を騒がしがりし夕、夕陽の中に富士足柄を望みし折の嬉しさなど思・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 国府津と小田原の中間に「雀の宮」という駅があったようだと子供達と話していたら、国府津駅の掲示板を見ていた子供の一人からそれは「鴨の宮」だという正誤を申込まれた。その子供の話によると、「ワシントン」という靴屋を間違えて「ナポレオン」と云・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ので、人力車から新橋の停車場に降り立った時、人から病人だと思われはせぬかと、その事がむやみに気まりがわるく、汽車に乗込んでからも、帽子を眉深にかぶり顔を窗の方へ外向けて、ろくろく父とも話をせずにいた。国府津の停車場前からはその頃既に箱根行の・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・ 旅の旅その又旅の秋の風 国府津小田原は一生懸命にかけぬけてはや箱根路へかかれば何となく行脚の心の中うれしく秋の短き日は全く暮れながら谷川の音、耳を洗うて煙霧模糊の間に白露光あり。 白露の中にほつかり夜の山 湯元に辿・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・だんだんそれが分って、しかもしんからそれのわかるのは様々の意味で私一人であり、けれども父のおもりをして国府津にくらすことは不可能ですし、大乗的に行動して家も別にしたのでしたが、太郎はよい折に生れました。この太郎という名、ヌーとしていて男の児・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 元日、急に夕刻になって思い立って、健坊づれ私といねちゃんと三人で国府津へ出かけました。汽車の都合がわるくてあちらについたのは一時頃でした。今あの往還は海浜のプロムナード国道になるので幅をひろくし、コンクリートにする下拵えですっかり掘り・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ この前のお手紙で国府津へでもおいでと云って下さったけれども、あすこは夏はムンムンです。それに海へ入らないしね。去年、重治さん夫婦は富士見の高原へゆき、健坊たちは千葉の海岸へ行ったが、今年はどこもまだ釘づけです。資金思わしからずでね。・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫