・・・ これは勿論国技館の影の境内に落ちる回向院ではない。まだ野分の朝などには鼠小僧の墓のあたりにも銀杏落葉の山の出来る二昔前の回向院である。妙に鄙びた当時の景色――江戸と云うよりも江戸のはずれの本所と云う当時の景色はとうの昔に消え去ってしま・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・かまだ数え立てれば、砲兵工廠の煙突の煙が、風向きに逆って流れたり、撞く人もないニコライの寺の鐘が、真夜中に突然鳴り出したり、同じ番号の電車が二台、前後して日の暮の日本橋を通りすぎたり、人っこ一人いない国技館の中で、毎晩のように大勢の喝采が聞・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 映画と、小説とは、まるでちがうものだ。国技館の角力を見物して、まじめくさり、「何事も、芸の極致は同じであります。」などという感慨をもらす馬鹿な作家。 何事も、生活感情は同じであります、というならば、少しは穏当である。 ことさら・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・ベースボールはもと亜米利加合衆国の国技とも称すべきものにしてその遊技の国民一般に賞翫せらるるはあたかも我邦の相撲、西班牙の闘牛などにも類せりとか聞きぬ。(米人のわれに負けたるをくやしがりて幾度も仕合を挑むはほとんど国辱この技の我邦に伝わりし・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・ 菊人形が国技館で開かれるようになってからは、見にゆく人の層も変ったらしいけれども、団子坂の菊人形と云われたことは、上野へ文展を見にゆく種類の人にも、そう縁の遠くない秋の行事の一つだったのではなかろうか。千駄木町に住んでいた漱石の作品の・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・わーというような無邪気な声と笑いが一斉に低いながら湧きおこった。国技館でも灯が入った刹那にはやはり罪のない歓声が鉄傘をゆるがしてあがる。人間の心持の天真なところが面白かった。 四辺が煌々と明るくなるとますます目の下の空っぽの議席が空虚の・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
・・・戸は悉く明け放ってある。国技館の電燈がまばゆいように半空に赫いている。 座敷を見渡すに、同郷人とは云いながら、見識った顔は少い。貴族的な風采の旧藩主の家令と、大男の畑少将とが目に附いた。その傍に藩主の立てた塾の舎監をしている、三枝と云う・・・ 森鴎外 「余興」
出典:青空文庫