・・・そのガラス窓を隔ててすぐそこに、信濃町で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい令嬢が、中折れ帽や角帽やインバネスにほとんど圧しつけられるようになって、ちょうど烏の群れに取り巻かれた鳩といったようなふうになって乗っている。・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・蒸風呂にでもはいったようで室内の空気がたまらなく圧しつけるように思われた。すぐに立って左側の窓をあけたが風を引きかえしてはいけないと思ってすぐにまた締め切った。上衣を脱いで右側の机の上に投げ出し机の前に帰ったが同時に名状の出来ない胸苦しさを・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・無限上に徹する大空を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏に圧し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍に坐りて、夜ごと日ごとのはたを織る。ある時は明るきはたを織り、ある時は暗きはた・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と圭さんは突然腕まくりをして、黒い奴を碌さんの前に圧しつけた。「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を磨いた事があるのかい」「豆も磨いた、水も汲んだ。――おい、君粗忽で人の足を踏んだらどっちが謝まるものだろう」「踏ん・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・けれどもぼくは何だか圧しつけられるようであの行進歌はきらいだ。何だかあの歌を歌うと頭が痛くなるような気がする。実習のほうが却っていいくらいだ。学校から纏めて注文するというので僕は苹果を二本と葡萄を一本頼んでおいた。四月九日〔以下・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・僕の前に行ったやつがいたずらして、その兄弟の眼を横の方からひどく圧しつけて、とうとうパチパチ火花が発ったように思わせたんだ。そう見えるだけさ、本当は火花なんかないさ。それでもその小さな子は空が紫色がかった白光をしてパリパリパリパリと燃えて行・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 今やわたくしたちは元気よく立ち上ったその肩の力で、人間生活を圧し殺して来た圧迫を徹底的にとりのぞかなければなりません。そして、自分たちのただ一度しかない人生を、自分として納得出来るしかたで充実させて行かなければならないと思います。・・・ 宮本百合子 「明日を創る」
・・・考えられ得る時代であったこと、また、プロレタリアの世界観は、現実の問題として、階級対立の社会にあっては支配階級のイデオロギーの侵害を多く受けているものであり、特に日本のように封建性の重いきずなが男女を圧しているところでは、女の性的受動性、男・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫