・・・私はふと濡れるような旅情を感ずると、にわかに生への執着が甦ってきました。そしてふと想いだした文子の顔は額がせまくて、鼻が少し上向いた、はれぼったい瞼の、何か醜い顔だった。キンキンした声も二十四の歳にしては、いやらしく若やいでいる……。 ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私の今日の惨めな生活、瘠我慢、生の執着――それが彼の一滴の涙によって、たとえ一瞬間であろうと、私の存在が根柢から覆えされる絶望と自棄を感じないわけに行かなかった。この哀れな父を許せ! 父の生活を理解してくれ――いつの場合でも私はしまいにはこ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・それはまあ一般に言えば人の秘密を盗み見るという魅力なんですが、僕のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、結局はそういったことに帰着するんじゃないかと思われるような特殊な執着があるらしいんです。いや、そんなものをほんとうに見たことなんぞは・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・とお徳は執着くお源を見ながら聞いた。「上等の佐倉炭です」 お源はこれ等の問答を聞きながら、歯を喰いしばって、踉蹌いて木戸の外に出た。 土間に入るやバケツを投るように置いて大急ぎで炭俵の口を開けて見た。「まア佐倉炭だよ!」と思・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 両人は、田舎に執着を持っていなかった。使い慣れた古道具や、襤褸や、貯えてあった薪などを、親戚や近所の者達に思い切りよくやってしまった。「お前等、えい所へ行くんじゃ云うが、結構なこっちゃ。」古い箕や桶を貰った隣人は羨しそうに云った。・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・けれども私は、藁ひとすじに縋る思いで、これまでの愚かな苦労に執着しているということも告白しなければならない。若し語ることがあるとすれば、ただ一つ、そのことだけである。私は、こんなばかな苦労をして、そうして、なんにもならなかったから、せめて君・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあ・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・それにははじめからあまり一つの問題にのみ執着して他の事に盲目になるのも考えものではないかと思うのである。 抽象的な議論よりも、まず一番手近な自分自身の経験を語る方が学生諸君のために、却って参考になるかもしれないと思って、同僚先輩には大い・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
・・・人が教えらえたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛し・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・拍子はいくら早く手はいくら細くても真直で単調で、極めて執着に乏しく情緒の粘って纏綿たる処が少い。しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に越すものはあるまい。 端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫