くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。 わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・唸り声、叫び声が堪え難い悲鳴に続く。 「気の毒だナ」 「ほんとうにかわいそうです。どこの者でしょう」 兵士がかれのポケットを探った。軍隊手帖を引き出すのがわかる。かれの眼にはその兵士の黒く逞しい顔と軍隊手帖を読むために卓上の蝋燭・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・これでは観客は全く過度の刺激の負担に堪えられなくなるのである。 巧妙な映画監督は、大写しのなんともない自然な一つの顔を、いわゆるモンタージュによって泣いている顔にも見せ、また笑っているようにも見せる。これはその顔が自然の顔でなんら概念的・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・ 爺さんはそこまで話して来ると、目を屡瞬いて、泣面をかきそうな顔を、じっと押堪えているらしく、皺の多い筋肉が、微かに動いていた。煙管を持つ手や、立てている膝頭のわなわな戦いているのも、向合っている主の目によく見えた。「忘れもしねえ、・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・彼らは今や堪えかねて鼠は虎に変じた。彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような企がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 仰向けに、天井板を見つめながら、ヒクヒクと、うずく痛みを、ジッと堪えた。 会社がロックアウトをして以来、モウかれこれ四十日である。印刷機械の錆付きそうな会社の内部に在って、利平達は、職長仲間の団体を造って、この争議に最初の間は「公・・・ 徳永直 「眼」
・・・然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一・・・ 永井荷風 「上野」
・・・太十には西瓜畑が見ることさえ堪えられなかった。彼は物狂おしくなった。彼は鎌をぶつりと番小屋の屋根へ打ち込んだ。薄い屋根を透して鎌の刃先は牙の如く光った。彼は蚊帳へもぐってごろりと横になって絶望的に唸った。文造は止めず鍬を振って居る。其暑い頂・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・愁を溶いて錬り上げし珠の、烈しき火には堪えぬほどに涼しい。愁の色は昔しから黒である。 隣へ通う路次を境に植え付けたる四五本の檜に雲を呼んで、今やんだ五月雨がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団を捨てて椽より両足をぶら下げている。「あの木立・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転た水の流と人の行末という如き感慨に堪えない。私は北国の一寒村に生れた。子供の時は村の小学校に通うて、父母の膝下で砂原の松林の中を遊び暮した。十三、四歳の時、小姉に連れられて金沢に出て、師範学校・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
出典:青空文庫