・・・観音の境内や第六区の路地や松屋の屋上や隅田河畔のプロムナードや一銭蒸汽の甲板やそうした背景の前に数人の浅草娘を点出して淡くはかない夢のような情調をただよわせようという企図だとすれば、ある程度までは成効しているようである。ただもう一息という肝・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・ まだ見た事のない総持寺の境内へはいってみた。左の岡の中腹に妙な記念碑のようなものがいくつも立っているのが、どういう意味だか分らない。分らないが非常に変な気持を与えるものである。 暑くなったから門内の池の傍のベンチで休んだ。ベンチに・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・則深川仲町には某楼があり、駒込追分には草津温泉があり、根岸には志保原伊香保の二亭があり、入谷には松源があり、向島秋葉神社境内には有馬温泉があり、水神には八百松があり、木母寺の畔には植半があった。明治七年に刊行せられた東京新繁昌記中に其の著者・・・ 永井荷風 「上野」
・・・樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処はなかった。梅花を見て春の来たのを喜ぶ習慣は年と共に都会の人から失われていたのである。 わたくしが梅花を見て・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・は明白なる時勢とも心付かずして、我が国人は教育の熱心自から禁ずること能わず、次第次第に高きを勉めて止まるを知らず、俗世界はいぜんとして卑く、教育法はますます高く、学校はあたかも塵俗外の仙境にして、この境内に閉居就学すること幾年なれば、その年・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・ 天神の裏門を境内に這入ってそこの茶店に休んだ。折あしく池の泥を浚えて居る処で、池は水の気もなく、掘りかけてある泥の深さが四、五尺もある。二、三十人の人夫は泥を掘る者もあるその掘った泥を運ぶ者もある。皆泥にまぶれて居る者ばかりだ。泥の臭・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・余り立派な顔の仏でないようだ。境内宏く、古びた大銀杏の下で村童が銀杏をひろって遊んでいる。本堂の廊から三つの堂を眺めた風景、重そうな茅屋根が夕闇にぼやけ、大銀杏の梢にだけ夕日が燃ゆる金色に閃いているのは、なかなか印象的であった。いかにも関東・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・せまい陰気な雨の境内は人ごみで雑踏し、賽銭をなげる音がし、祈祷の声がする。切ない心で諸国から集ったこれらの人々が、みんなあの幾百段をのぼって来ている。信仰の勿体なさを深くするため、印象づけるため、すべての流行する信仰建築は、きっとこういう途・・・ 宮本百合子 「琴平」
・・・と言う声がした。境内の杉の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒の上に笠のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴と触れるようにあとさき・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 境内を廻って、観音を拝んで、見識人を桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵前を両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁見物に出た人が押し合っている。提灯に火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出し・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫