・・・生活は秩序正しく、まっ白なシーツに眠るというのは、たいへん結構な事だが、しかし、自分ひとり大いに努力してその境地を獲得した途端に、急に人が変って様子ぶった男になり、かねてあんなに憎悪していたサロンにも出入し、いや出入どころか、自分からチャチ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・や、レニン先生を、と言いたいところでもあろうが、この作者、元来、言行一致ということに奇妙なほどこだわっている男で、いやいや、そう言ってもいけない、この作者、元来、非惨を愛する趣味家であって、安心立命の境地を目して、すべて崩壊の前提となし、あ・・・ 太宰治 「創作余談」
・・・仙術の奥義は、懐手して柱か塀によりかかりぼんやり立ったままで、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・実と虚と相接するところに虚実を超越した真如の境地があって、そこに風流が生まれ、粋が芽ばえたのではないかという気がするのである。もっともこの中立地帯の産物はその地帯の両側にある二つの世界の住民から見るとあるいは廃頽的と見られあるいは不徹底との・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(※[#ローマ数字7、1-13-27])」
・・・暑いも寒いも、夜の更けるのも腹の減るのも一切感じないかと思われるような三昧の境地に入り切っている人達を見て、それでちっとも感激し興奮しないほどにわれわれの若い頭はまだ固まっていなかったのである。 大学へはいったらぜひとも輪講会に出席する・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
・・・後者のままごと式の野営生活もたしかに愉快でもありまたいろいろな意味で有益ではあろうが、しかし、前者の体験する三昧の境地はおそらく王侯といえども味わう機会の少ないものであって、ただ人類の知恵のために重い責任を負うて無我な真剣な努力に精進する人・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・このような血のめぐりのいい時に、もしほんとうの教育、人の心を高い境地に引き上げるような積極的な教育が施されたら、どんなに有効な事であろう。 元気のいい人たちの中には少数の沈んだ顔もあった。けんかでもしたのかハンケチを顔に押しあてて泣いて・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 何事でも人の寄る所へは押し寄せて行って群集を押し分けて先を争わないと気の済まない人と、そういう所はなるべく避けて少々の便宜は犠牲にしても人をわずらわさず人にわずらわされない自由の境地を愛する人とがある。この甲型の人の目から見ると乙型の・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少な時間をさいて心を無垢な自然の境地に遊ばせる事もできようし、長い月日を・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・自分の仕えている主人と現在の職業のほかに、自分の境地を拓いてゆくべき欲求も苦悶もなさすぎるようにさえ感ぜられた。兄の話では、今の仕事が大望のある青年としてはそう有望のものではけっしてないのだとのことであった。で、私がこのごろ二十五六年ぶりで・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫