・・・しかし木枯らし吹く夕暮れなどに遠くから風に送られて来るラッパの声は妙に哀愁をおびて聞こえるものである。 勇ましいということの裏には本来いつでも哀れなさびしさが伴なっているのではないかという気がする。 九 東郷・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・が現われ、最後に、ゆるやかなあげ句で、ちょうど春の夕暮れのような心持ちで全編が終結するのである。これはもちろんラルゴかレントの拍子である。このように連句の場合では1と4が緩徐であるのに、音楽のほうでは1と4が急テンポである事自身がまたわれわ・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・ 初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。「聞えるだろう」と圭さんが云う。「うん」と碌さんは答えたぎり黙然としている。隣りの部屋で何だか二人しき・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 赤い着物の女の子は俥の幌の中へ消えてしまった。山は雲の中に煙っていた。雨垂れはいつまでも落ちていた。郵便脚夫は灸の姉の所へ重い良人の手紙を投げ込んだ。 夕暮れになると、またいつものように点燈夫が灸の家の門へ来た。献燈には新らしい油・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・丁度、そうして夕暮れ鉄材を積んだ一隊の兵士と出会った場所まで来たとき、溌剌としていた昼間の栖方を思い出し、やっと梶は云った。「しかし、君、そういうところから人間の生活は始まるのだから、あなたもそろそろ始まって来たのですよ。何んでもないの・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 夏の夕暮れ、ややほの暗くなるころに、月見草や烏瓜の花がはらはらと花びらを開くのは、我々の見なれていることである。しかしそれがいかに不思議な現象であるかは気づかないでいる。寺田さんはそれをはっきりと教えてくれる。あるいは鳶が空を舞いなが・・・ 和辻哲郎 「寺田寅彦」
出典:青空文庫