・・・此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫にくらわれ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事大地微塵よりも多し。法華経の為には一度も失う事なし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心に足らず、国恩を報ずべき力・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・さては熊谷の石原にしるしの碑の立てりしもこの御神のためなるべし、ことさらにまいる人も多しとおぼゆるに、少しの路のまわりを厭いて見過ごさんもさすがなりと、大路を横に折れて、蝉の声々かしましき中を山の方へと進み入るに、少時して石の階数十級の上に・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・この辺牛馬殊に多し。名物なれど喰うこともならず、みやげにもならず、うれしからぬものなりと思いながら、三の戸まで何ほどの里程かと問いしに、三里と答えければ、いでや一走りといきせき立て進むに、峠一つありて登ることやや長けれども尽きず、雨はいよい・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・今君は弱冠にして奇功多し。願わくは他日忸れて初心を忘るるなかれ。余初めて書を刊して、またいささか戒むるところあり。今や迂拙の文を録し、恬然として愧ずることなし。警戒近きにあり。請う君これを識れと。君笑って諾す。すなわちその顛末を書し、もって・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・心境未だし、デッサン不正確なり、甘し、ひとり合点なり、文章粗雑、きめ荒し、生活無し、不潔なり、不遜なり、教養なし、思想不鮮明なり、俗の野心つよし、にせものなり、誇張多し、精神軽佻浮薄なり、自己陶酔に過ぎず、衒気、おっちょこちょい、気障なり、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・聖書辞典に拠ると、「悪鬼とは、サタンに追従して共に堕落し霊物にして、人を怨み之を汚さんとする心つよく、其数多し」とある。甚だ、いやらしいものである。わが名はレギオン、我ら多きが故なりなどと嘯いて、キリストに叱られ、あわてて二千匹の豚の群に乗・・・ 太宰治 「誰」
・・・また個々の場合における予報の可能の程度等に関しては、学者自身の間にも意見は必ずしも一定せざる事多し。左の一篇は、一般に予報の可能なるための条件や、その可能の範囲程度並びにその実用的価値の標準等につきて卑見を述べ、先覚者の示教を仰ぐと同時に、・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・大府岡崎御油なんど昔しのばるゝ事多し。豊橋も後になり、鷲津より舞坂にかゝる頃よりは道ようやく海岸に近づきて浜名の湖窓外に青く、右には遠州洋杳として天に連なる。漁舟江心に向かいてこぎ出せば欸乃風に漂うて白砂の上に黒き鳥の群れ居るなどは『十六夜・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・その他なお多し。 牛込区内では○市ヶ谷冨久町饅頭谷より市ヶ谷八幡鳥居前を流れて外濠に入る溝川○弁天町の細流○早稲田鶴巻町山吹町辺を流れて江戸川に入る細流。 四谷新宿辺では○御苑外の上水堀○千駄ヶ谷水車ありし細流。 小石川区内では・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
白魚、都鳥、火事、喧嘩、さては富士筑波の眺めとともに夕立もまた東都名物の一つなり。 浮世絵に夕立を描けるもの甚多し。いずれも市井の特色を描出して興趣津々たるが中に鍬形くわがたけいさいが祭礼の図に、若衆大勢夕立にあいて花・・・ 永井荷風 「夕立」
出典:青空文庫