・・・ 紀州は同じく紀州なり、町のものよりは佐伯附属の品とし視らるること前のごとく、墓より脱け出でし人のようにこの古城市の夜半にさまようこと前のごとし。ある人彼に向かいて、源叔父は縊れて死にたりと告げしに、彼はただその人の顔をうちまもりしのみ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 御最後川の岸辺に茂る葦の枯れて、吹く潮風に騒ぐ、その根かたには夜半の満汐に人知れず結びし氷、朝の退潮に破られて残り、ひねもす解けもえせず、夕闇に白き線を水ぎわに引く。もし旅人、疲れし足をこのほとりに停めしとき、何心なく見廻わして、何ら・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・ 兵士達は、始終過激派を追っかけ、家宅捜索をしたり、武器を押収したり、夜半に叩き起され、やにわに武装を整えて応援に出かけたりしなければならなかった。鉄道沿線へは多くに分れて小部隊が警戒に出かけた。栗本の中隊は、汽車に乗ってイイシの警戒に・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・間の宿とまでもいい難きところなれど、幸にして高からねど楼あり涼風を領すべく、美からねど酒あり微酔を買うべきに、まして膳の上には荒川の鮎を得たれば、小酌に疲れを休めて快く眠る。夜半の頃おい神鳴り雨過ぎて枕に通う風も涼しきに、家居続ける東京なら・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・二本松に至れば、はや夜半ちかくして、市は祭礼のよしにて賑やかなれど、我が心の淋しさ云うばかりなし。市を出はずるる頃より月明らかに前途を照しくるれど、同伴者も無くてただ一人、町にて買いたる餅を食いながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・自分は飯綱の法を修行したが、遂に成就したと思ったのは、何処に身を置いて寝ても、寝たところの屋の上に夜半頃になればきっと鴟が来て鳴いたし、また路を行けば行く前には必ず旋風が起った。とこういうことを語ったという。鴟は天狗の化するものであるとされ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・年一年とくらしが苦しく、わが絶望の書も、どうにも気はずかしく、夜半の友、モラルの否定も、いまは金縁看板の習性の如くにさえ見え、言いたくなき内容、困難の形式、十春秋、それをのみ繰りかえし繰りかえし、いまでは、どうやら、この露地が住み良く、たそ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・その女の、死なねばならなかったわけは、それは、私にもはっきりわからないけれども、とにかく、その女は、その夜半に玉川上水に飛び込む。新聞の都下版の片隅に小さく出る。身元不明。津島には何の罪も無い。帰宅すべき時間に、帰宅したのだ。どだい、津島は・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・師走、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントを脱がずに、入水した。女は、死んだ。告白する。私は世の中でこの人間だけを、この小柄の女性だけを尊敬している。私は、牢へいれられた。自殺幇助罪という不思議の罪名であった。そのときの、入水の場所・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・孕の海にジャンと唱うる稀有のものありけり、たれしの人もいまだその形を見たるものなく、その物は夜半にジャーンと鳴り響きて海上を過ぎ行くなりけり、漁業をして世を渡るどちに、夜半に小舟浮かべて、あるは釣りをたれ、あるいは網を打ちて幸多かる・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
出典:青空文庫