・・・朝は寝坊であったが夜は時には夜半過ぐるまで書斎で仕事をしていたそうである。たまにはラジオで長唄や落語など聴く事もあった。西洋音楽は自分では分らないと云っていたが、音楽に堪能な令息恭雄氏の話によると相当な批判力をもっていたそうである。 運・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・僧が夜半に起きて鐘をつく習慣さえ、いつまで昔のままにつづくものであろう。 たまたま鐘の声を耳にする時、わたくしは何の理由もなく、むかしの人々と同じような心持で、鐘の声を聴く最後の一人ではないかというような心細い気がしてならない……。・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・ 母上は其の夜の夜半、夢ではなく、確かにこんこんと云う啼き声を聞いたとの話。下女は日が暮れたと云ったら、どんな用事があっても、家の外へは一歩も踏出さなくなった。忠義一図の御飯焚お悦は、お家に不吉のある兆と信じて夜明に井戸の水を浴びて、不・・・ 永井荷風 「狐」
・・・この夜半の世界から犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない。吾家が海の底へ沈んだと思うくらい静かになる。静まらぬは吾心のみである。吾心のみはこの静かな中から何事かを予期しつつある。されどもその何事なるかは寸分の観念だにない。性の知れぬ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・余はただその晩の夜半に彼の死顔を一目見ただけである。 その夜は吹荒さむ生温い風の中に、夜着の数を減して、常よりは早く床についたが、容易に寝つかれない晩であった。締りをした門を揺り動かして、使いのものが、余を驚かすべく池辺君の訃をもたらし・・・ 夏目漱石 「三山居士」
夜半にふと眼をさますと縁側の処でガサガサガタと音がするから、飼犬のブチが眠られないで箱の中で騒いで居るのであろうと思うて見たが、どうもそうでない。音の工合が犬ばかりでもないようだ。きっと曲者が忍びこんだのに違いない。犬に吠えられないよ・・・ 正岡子規 「権助の恋」
・・・根岸まで帰って来たのは丁度夜半であったろう。ある雑誌へ歌を送らねばならぬ約束があるので、それからまだ一時間ほど起きて居て歌の原稿を作った。 翌日も熱があったがくたびれ紛れに寝てしもうた。 そのまた翌日即ち五月一日には熱が四十度に上っ・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・そして、斎藤茂吉氏の解説によると、この一作のかかれた動機は、その年九月十三日明治大帝の御大葬にあたって乃木大将夫妻の殉死があった。夜半青山の御大葬式場から退出しての帰途、その噂をきいて「予半信半疑す」と日記にかかれているそうである。つづいて・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・そこを立って来た夜半に、計らず聴いた雨の音故一きわすがすがしく、しめやかに感じたということもあろう。鳥栖で、午前六時、長崎線に乗換る時には、歩廊を歩いている横顔にしぶきを受ける程の霧雨であった。車室は、極めて空いている。一体、九州も、東海岸・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・三七日の夜半に観音は、子種のないことを宣したが、長者は観音に強請して、一切の財産を投げ出す代わりに子種を得るということになった。やがて北の方は美しい玉王を生んだが、その代わり長者の富はすべて消えて行った。長者は北の方とただ二人で赤貧の暮らし・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫