・・・ 翁のゆきし後、火は紅の光を放ちて、寂寞たる夜の闇のうちにおぼつかなく燃えたり。夜更け、潮みち、童らが焼し火も旅の翁が足跡も永久の波に消されぬ。 国木田独歩 「たき火」
・・・同二十二日――「夜更けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」同二十四日――「木葉い・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・木枯しがつよく吹いている夜更けであった。私は、枕元のだるまに尋ねた。「だるま、寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」私はかさねて尋ねた。「ほんとうに寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」「ほんとうに。」「寒くない。」傍に寝ている・・・ 太宰治 「玩具」
・・・屋根へあがって、二階のこの部屋へ、しかもこんな夜更けに人を訪問するなんて、正気の沙汰じゃないわよ。お願いです、からかわないで下さい。私が悪いのです。夜這いなどと言われるのは、実に心外ですが、しかし、致しかたがありません。私には、これより・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ 夕刊売りが問題の夜更けに問題のアパート階上の洗面場で怪しい男の手を洗っているのを見たという証言のあたりから、記者席の真犯人に観客の注意が当然集注されるから、従ってその時に真犯人は真に真犯人であるらしい挙動をして観客に見せなければならな・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ああ、二羽が二羽とも、同じ一声の悲鳴と共に、田崎の手に首をねじられ、喜助の手に毛をられ、安の手に腹を割かれ、腸を引出されて了った。夜更けまで、舌なめずりしながら、酒を飲んで居る人達の真赤な顔が、私には絵草紙で見る鬼の通りに見えた。 眠り・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ハア、おどりおどるなら、という唄が流れ、夜更けまで若い人々は踊りました。ことしは豊年というので、ああ踊が立ったのでしょうか。 あの太鼓をきいて思い出した方が多いでしょう。戦争がうんとひどくなるすこし前に政府は日本じゅうに踊をはやらせて、・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・ 机に向って夜更けの電燈の下で例のとおり小さな家をきしませながら遠ざかって行く夜なかの貨車の響きをきくともなく聴いていたら、すぐそれにつづくように又地響を立てて汽車が通った。ドドドドドドドと重く地をふるわすとどろきにまじって、わーッ、わ・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・私は決して夜更けの仕事がすきではないから、この点も改めて御安心いただきます。きっと眼が丈夫でないからだろうが、私はひる間の書きものが一番好きであるし、そのように整理してやって居ます。ほんとに、時間は悠久であるが、ですね。でも、私のように欲ば・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ そよりともしない夜更けの寒い静かな裡に、二つのひしゃげた影坊師がヨチヨチと動いて行くのである。 彼等は折々立ち止まって、水溜りに嘴を突込んでは意地の汚なそうな、ジュ、ジュジュ、ジュと云う音を立てながら歩いて行った。「お月様・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
出典:青空文庫