・・・ 二 ここに、杢若がその怪しげなる蜘蛛の巣を拡げている、この鳥居の向うの隅、以前医師の邸の裏門のあった処に、むかし番太郎と言って、町内の走り使人、斎、非時の振廻り、香奠がえしの配歩行き、秋の夜番、冬は雪掻の手伝いなどした親仁が住ん・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・……夜番は駆けつけますわ、人は騒ぐ。気の毒さも、面目なさも通越して、ひけめのあるのは大火傷の顔のお化でしょう。 もう身も世も断念めて、すぐに死場所の、……鉄道線路へ……」「厠からすぐだろうか。」「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 表通りで夜番の拍子木が聞える。隣村らしい犬の遠ぼえも聞える。おとよはもはやほとんど洗濯の手を止め、一応母屋の様子にも心を配った。母屋の方では家その物まで眠っているごとく全くの寝静まりとなった。おとよはもう洗い物には手が着かない。起って・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 夜が更けて夜番の撃柝の音がきこえ出すと、堯は陰鬱な心の底で呟いた。「おやすみなさい、お母さん」 撃柝の音は坂や邸の多い堯の家のあたりを、微妙に変わってゆく反響の工合で、それが通ってゆく先ざきを髣髴させた。肺の軋む音だと思ってい・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・恐るべき神経衰弱はペストよりも劇しき病毒を社会に植付けつつある。夜番のために正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにもかかわらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・父の洋行留守、夜番がわりにと母が家で食事を与えて居たと云うに過ぎなかったのではなかろうか。その頃の千駄木林町と云えば、まことに寂しい都市の外廓であった。 表通りと云っても、家よりは空地の方が多く、団子坂を登り切って右に曲り暫く行くと忽ち・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・のときには独逸の国境へやられた。革命前、既に上ジリンスキー村の宗教反対運動の指導者であった。農民の言葉での所謂「物しり」である。今はコンムーナ「五月の朝」の夜番をつとめ、なかなかの美術や文学ずきで、自分流にそういうものを愛している。 パ・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・今はもうあなたがお寝になってから六、七時間も経っている時間です。夜番の拍子木の音が響いている。[自注22]国府津――百合子の実父たちの海岸の家。[自注23]太郎――百合子の甥。 十二月二十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ こんな心配をして、お七夜さわぎをして、夜番をするのだからアッコオバチャンだって気もたつわ。無理ないでしょう? おまけにね、どてらの心配もあるのよ。辞書をひくなんというやさしいことではなくて田中さんという浅草の女の人がいつになったら・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 女、前の、夜番。 二十三日 みな安積から帰る。大宮から自動車で来、やけ跡も見ない故か、ふわふわたわいない心持。 二十四日 夜からひどいひどい雨、まるで吹きぶりでひとりでにバラックや仮小屋のひとの身の上を思い・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
出典:青空文庫