・・・役所へ出勤する前、崖の中腹に的を置いて古井戸の柳を脊にして、凉しい夏の朝風に弓弦を鳴すを例としたが間もなく秋が来て、朝寒の或日、片肌脱の父は弓を手にした儘、あわただしく崖の小道を馳上って来て、皺枯れた大声に、「田崎々々! 庭に狐が居る。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔する底の同情ではない。傍から見て気の毒の念に堪・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・ それは、鑿岩機さえ運転していないで、吹雪さえなければ、対岸までも聞える程の大声であった。そして、その小林は、秋山と三尺も離れないで、鑿の尖の太さを較べているのだった。「駄目だよ。あのインダラ鍛冶屋は。見ろよ、三尺鑿よりゃ六尺鑿の方・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・そして囁いた。「おれは盗んだのだ。何百万と云う貨物を盗んだ。おれはミリオネエルだ。そのくせかつえ死ななくてはならないのだ。」 一本腕は目を大きくみはった。そして大声を出して笑った。「ミリオネエルだ。あの、おめえがか。して見ると、珍らしい・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・聞て、俄にとはむとおもひなりぬ、ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに、そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり、柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ、師質心せきたるさまして参議君の御成ぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじもの・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・誰も桜が立派だなんて云わなかったら僕はきっと大声でそのきれいさを叫んだかも知れない。僕は却ってたんぽぽの毛のほうを好きだ。夕陽になんか照らされたらいくら立派だか知れない。今日の実習は陸稲播きで面白かった。みんなで二うねずつやるのだ。ぼく・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・一目見、自分は大声で泣き出した。背中に小猿をくくり付けでもしたように、赤い着物の女の子が、小さく、かーんと強張って背負われて居るのだ。「河に身を投げたのだ」と誰かが云う声が聞える。自分は、泣き泣き机の下から出た。どうしてもその小さい・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・息子さんは誰やらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度に脱れた。それから大騒ぎになって、近所の医者に見て貰ったが、嵌めてはくれなかった。このままで直らなかったらどうしようというので、息子よりはお上さ・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・と、南天の蔭に背中を見せて帰って行く秋三の姿が眼についた。「今来たのは秋公か?」「お前、秋が安次を連れて来てくれたんやがな。」 安次は急に庭から立ち上ると、「秋公、こら、秋公。」と大声で呼び出した。 勘次は秋三に逢いたく・・・ 横光利一 「南北」
・・・おしまいには私も子供といっしょに大声をあげて泣きたくなりました。――何というばかな無慈悲な父親でしょう。子供の不機嫌は自分が原因をなしていたのです。子供の正直な心は無心に父親の態度を非難していたのです。大きい愛について考えていた父親は、この・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫