・・・ 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾かれたように、飛び上った。「おのれ、どこへ行く。」 下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとす・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・玉突屋。大弓所。珈琲店。下宿。彼はそのせせこましい展望を逃れて郊外へ移った。そこは偶然にも以前住んだことのある町に近かった。霜解け、夕凍み、その匂いには憶えがあった。 ひと月ふた月経った。日光と散歩に恵まれた彼の生活は、いつの間にか怪し・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」と仲間うちでは遅く始めた体操の教師が言った。「一年の御稽古でも、しばらく休んでいると、まるで当らない――なんだか冗談のようですナ」強弓をひく方の大尉も笑った。 何となく寂びれて来た・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・一時、頻と馬術に熱心して居られたが、それも何時しか中止になって、後四五年、ふと大弓を初められた。毎朝役所へ出勤する前、崖の中腹に的を置いて古井戸の柳を脊にして、凉しい夏の朝風に弓弦を鳴すを例としたが間もなく秋が来て、朝寒の或日、片肌脱の父は・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫