・・・ではお君さんは誰に心を寄せているかと云うと――幸お君さんは壁の上のベエトオフェンを眺めたまま、しばらくは身動きもしそうはないから、その間におれは大急ぎで、ちょいとこの光栄ある恋愛の相手を紹介しよう。 お君さんの相手は田中君と云って、無名・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・私は門の前でそうそう車賃を払って、雨の中を大急ぎで玄関まで駈けて参りました。玄関の格子には、いつもの通り、内から釘がさしてございます。が、私には外からでも釘が抜けますから、すぐに格子をあけて、中へはいりました。大方雨の音にまぎれて、格子のあ・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ 所が泰さんの家を出て、まだ半町と行かない内に、ばたばた後から駈けて来るものがありますから、二人とも、同時に振返って見ると、別に怪しいものではなく、泰さんの店の小僧が一人、蛇の目を一本肩にかついで、大急ぎで主人の後を追いかけて来たのです。・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ぼくたちが戦ごっこをしに山に遊びに行って、その乞食を遠くにでも見つけたら最後、大急ぎで、「人さらいが来たぞ」といいながらにげるのだった。その乞食の人はどんなことがあっても駆けるということをしないで、ぼろを引きずったまま、のそりのそりと歩いて・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 僕はいい気味で、もう一つ八っちゃんの頬ぺたをなぐりつけておいて、八っちゃんの足許にころげている碁石を大急ぎでひったくってやった。そうしたら部屋のむこうに日なたぼっこしながら衣物を縫っていた婆やが、眼鏡をかけた顔をこちらに向けて、上眼で・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・僕は何しろ一生懸命に駈け出して帽子に追いつきました。まあよかったと安心しながら、それを拾おうとすると、帽子は上手に僕の手からぬけ出して、ころころと二、三間先に転がって行くではありませんか。僕は大急ぎで立ち上がってまたあとを追いかけました。そ・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・ 分外なお金子に添えて、立派な名刺を――これは極秘に、と云ってお出しなすったそうですが、すぐに式台へ出なさいますから、と引留めて置いて、まだ顔も洗わなかったそうですけれど、トントンと、二階へ上って、大急ぎで廊下を廻って、襖の外から、(・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・そうして、家が失くなったり、街が焼けてしまうと、あわてて大急ぎで、俺たちのいる方へやってくる。そんなにまで俺たちは、人間のために尽くしているのに、ありがたいとは思っていない。」と、ひのきの木は、話しかけました。 くるくるとした、黒い、鋭・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・ 青春も若さも大急ぎで私から去ってしまったらしい、といって、私は非常に悲観しているわけではない。今年の春、私は若い将校が長い剣を釣って、若い女性と肩を並べながら、ひどく気取った歩き方で大阪の焼跡を歩いているのを目撃した時、若さというもの・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ もっとも、その当日、まるでお芝居に出るみたいに、生れてはじめて肌ぬぎになって背中にまでお白粉をつけるなど、念入りにお化粧したので、もう少しで約束の時間に遅れそうになり、大急ぎでかけつけたものだから、それを見合いはともかくそんな大袈裟な・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
出典:青空文庫