・・・ その後、時々P教室の自分の部屋をたずねて来て、当時自分の研究していた地磁気の急激な変化と、B教授の研究していた大気上層における荷電粒子の運動との関係についていろいろ話し合ったのであったが、何度も会っているうちに、B教授のどことなくひど・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・乗合わせた農夫農婦などは銘々の大きな荷物に腰かけているからいいが、手ぶらの教授方以下いずれも立ったままでゆられながら、しきりに大気の物理を論じ合っていた。 地理学教室ではペンクや助手のベーアマンが引率して近郊の地質地理見学に出掛けた。ペ・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・ 鼻の先から出る黒煙りは鼠色の円柱の各部が絶間なく蠕動を起しつつあるごとく、むくむくと捲き上がって、半空から大気の裡に溶け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然として、首の消えた方角を見つめている。 しばらく・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・しばらくして、その森閑とした大気のどこかしらから人声がきこえて来た。かすかだった人声は次第にたかまり、やがて早足に歩く跫音がおこり、やがてかたまって駈けまわるとどろきになって来た。君たちは、話すことができる! 君たちは話すことができる! そ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
・・・数哩へだたった山々はゆるやかな起伏をもってうっすりと、あったまった大気の中に連っているのであるが、昔山々と市街との間をつないでいた村落や田園は片影をとどめない。 今日あるものは、満目の白い十字の墓標である。幾万をもって数えられるかと思う・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・吊橋にこんもりかぶさって密生している椎の梢の上に黒い深夜の空があり、黒が温泉場らしく和んだ大気に燦いているのが雨戸越しにも感じられる。除夜の鐘も鳴らない大晦日の晩が、ひっそりと正月に辷り込んだ。 三ガ日の繁忙をさけて来ている浴客だが・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
・・・此の軽い大気! 先生、うんざりする雨の後に、急に甦って輝く森林や湖水、其等の上に躍る日光は、何と云う美くしさでございましょう。水溜を跳び越えながら、一寸頭を擡げて空を仰ぐ若い女の影。馳け廻る犬の愉快なスニッフ。 陰影が出来、光輝を与えら・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・人工の浪漫なくおもむきなく世の規定を知らずとび落ちようおのが飛沫の中にかゞやき落ちようおゝ詩はやわらかい言葉のためにあるのではないわがうたは社交と虚礼のために奏でざれあかつきの大気をくぐりぬけ美しい霜のおくように・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
厳寒で、全市は真白だ。屋根。屋根。その上のアンテナ。すべて凍って白い。大気は、かっちり燦いて市街をとりかこんだ。モスクワ第一大学の建物は黄色だ。 我々は、古本屋の半地下室から出た。『戦争と平和』の絵入本二冊十五ルーブリ・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・ 空を飛ぶ鳥がいきなり大気の波動にまかれて、後から後から落ち始めた。ヴィンダー や。忽ちあの五十層の建物が、木葉微塵にとび散ったぞ。優雅な塔が歪む。……ほら倒れる。千、万のぼろ家は、ぐっしゃり一潰れだ。堂宇も宮も、さっさと砕けろ!ミ・・・ 宮本百合子 「対話」
出典:青空文庫