・・・仕方がないからまた横向になって大病人のごとく、じっとして夜の明けるのを待とうと決心した。 横を向いてふと目に入ったのは、襖の陰に婆さんが叮嚀に畳んで置いた秩父銘仙の不断着である。この前四谷に行って露子の枕元で例の通り他愛もない話をしてお・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・自家の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明なりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・― 大正三年九月二十六日こよなく尊き 宝失える 哀れなる姉 小霧降り虫声わびて 我が心悲しめる 夜の最中 私は丁度その頃かなりの大病をした後だったので福島の祖母の家へ行・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・いつもより高くあがって居るのを見ると、何だか急に、大病にでもなった様な、又、大病の前徴ででも有りはしまいかと云う心持になって、おずおずと母の処へ行く。 そうすると、私はきっと母に云われる。 第一夜更ししてのむべき薬をのまなかった事、・・・ 宮本百合子 「熱」
・・・あれはこう云って丁度大病人に医者がまだ心臓がはっきりしていらっしゃいますからって云うような調子で云って私の髪を指の間でチャリチャリと云わせて居た。 嬉しくってかなしい――夜は更けて行く。 〔無題〕 私達……私達ば・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸に添地を賜わったり、鷹狩の鶴を下されたり、ふだん慇懃を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤もである。 将軍家がこ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・しかし心の奥には、こうして暮らしていて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼が潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出して来て穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾の上に頭をもたげて来る・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫