・・・「じや失敬。」「さようなら。」 HやNさんに別れた後、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡った蜩の声も僕等の耳へ伝わって来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 抛るよ。失敬。」「こりゃどうも。E・C・Cですな。じゃ一本頂きます――。もうほかに御用はございませんか? もしまたございましたら、御遠慮なく――」 神山は金口を耳に挟みながら、急に夏羽織の腰を擡げて、そうそう店の方へ退こうとした。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」 甘谷は立続けに叩頭をして、「そこで、おわびに、一つ貴女の顔を剃らして頂きやしょう。いえ、自慢じゃありませんがね、昨夜ッから申す通り、野郎図体は不器用でも、勝奴ぐらいにゃ確に使えます。剃刀を・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「女の前でよその女をほめるのは、ちっと失敬なわけだけど、えいやねい、おはまさん、おはまさんはおとよさんびいきだからねい」 おはまはわきを見て相手にならない。政さんはだれへも渡りをつけて話をする。外は秋雨しとしとと降って、この悲しげな・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ この野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼけて常吉をやり過ごした。「馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「あら、先生!」と、第一にお貞婆さんが見つけて、立って来た。「こんなむさ苦しいところからおいでんでも――」「なアに、僕は遠慮がないから――」「まア、おはいりなさって下さい」「失敬します」と、僕は台どころの板敷きからあがって、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「こないだは失敬した。君の名を知らんもんだからね、どんな容子の人だと訊くと、鞄を持ってる若い人だというので、(取次がその頃私が始終提げていた革の合切袋テッキリ寄附金勧誘と感違いして、何の用事かと訊かしたんだ。ところが、そんなら立派な人の紹介・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 明くる日の昼ごろ、正雄さんは、海辺へいってみますと、いつのまにやら、昨日見た空色の着物を着た子供がきていまして、「や、失敬っ。」と声をかけて駆け寄り、「君にこれをやろうと思って拾ってきたよ。」と、それはそれはきれいな真珠や、さ・・・ 小川未明 「海の少年」
・・・と、その少年はいって、さっさと道具をかたづけてしまうと、「じゃ君、失敬!」と、少年はさも懐かしそうに光治の方を見ていって、いずこへともなく森の中を歩いて姿を隠してしまいました。光治はその少年を見送りながら、どこへ帰るのだろうと思・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・だから、はじめのうちは、こいつ失敬な奴だ、金があると思って、いやに見せびらかしてやがるなどと、随分誤解されていたらしい。ところが、事実あの人には五十銭の金もない時がしばしばであった。校内の食堂はむろん、あちこちの飯屋でも随分昼飯代を借りてい・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
出典:青空文庫