・・・しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを漂わしていた。 壁際の籐椅子に倚った房子は、膝の三毛猫をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂そうな視線を遊ばせていた・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・と、やがて眼近い夾竹桃は深い夜のなかで揺れはじめるのであった。喬はただ凝視っている。――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えてゆき現われて来、喬は心の裡に定かならぬ想念のまた過ぎてゆくのを感じた。蟋蟀が鳴いていた・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹桃の花が咲いたのを、めらめら火が燃え・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・ もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。一ばん永く住んでいたのは、三鷹町下連雀の家であろう。大戦の前から住んでいたのだが、ことしの春・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・八月の中ごろ、私はお隣りの庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本、ゆずって下さるよう、お隣りへたのみに行かせた。家人は着物を着かえながら、お金は失礼ゆえ、そのうち私が東京へ出て袋・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・竹藪の中で、赤く咲いているのは夾竹桃らしい。眠くなって来た。「釣れますか?」女の声である。 もの憂げに振り向くと、先刻の令嬢が、白い簡単服を着て立っている。肩には釣竿をかついでいる。「いや、釣れるものではありません。」へんな言い・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・草原には矮小な夾竹桃がただ一輪真赤に咲いている。綺麗に刈りならした芝生の中に立って正に打出されようとする白い球を凝視していると芝生全体が自分をのせて空中に泛んでいるような気がしてくる。日射病の兆候でもないらしい。全く何も比較の尺度のない一様・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・ 海沿いの公園では夾竹桃が真盛りであった。わきのベンチに白い布で寛やかに頭から体をつつんだペルシア女が、黒い目で凝っと風に光る紅い夾竹桃の花を眺めている。ここも人気すくなく、程経って二十人ばかりのソヴェト水兵が足並そろえてやって来て、同・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・板塀の上に二三尺伸びている夾竹桃の木末には、蜘のいがかかっていて、それに夜露が真珠のように光っている。燕が一羽どこからか飛んで来て、つと塀のうちに入った。 数馬は馬を乗り放って降り立って、しばらく様子を見ていたが、「門をあけい」と言った・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・垣の方に寄って夾竹桃が五六本立っている。 車から降りるのを見ていたと見えて、家主が出て来て案内をする。渋紙色の顔をした、萎びた爺さんである。 石田は防水布の雨覆を脱いで、門口を這入って、脱いだ雨覆を裏返して巻いて縁端に置こうとすると・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫