・・・そんな事は一々聞かないでもいいから好加減にしてくれと云うと、どう致しまして、奥様の入らっしゃらない御家で、御台所を預かっております以上は一銭一厘でも間違いがあってはなりません、てって頑として主人の云う事を聞かないんだからね」「それじゃあ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・かな見え坊の細君もここに至って翻然節を折って、台所へ自身出張して、飯も焚いたり、水仕事もしたり、霜焼をこしらえたり、馬鈴薯を食ったりして、何年かの後ようやく負債だけは皆済したが、同時に下女から発達した奥様のように、妙な顔と、変な手と、卑しい・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・そして、若しおよろしいようなら、今日は折角でございますから奥様だけでも是非おいで下さいますように。一年にたった一度のクリスマスで――」「一年にたった一度のクリスマス!」その一句は、異様に彼の神経を刺戟した。まるで、その一度きりの日にさえ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ お君さんがそんななんでございますか、まあ死ぬんでございますか奥様。と、如何にも、思いがけない事があるもんだと云う様な顔をして居た。 終いには、「兎に角、時候が悪いんだねえ一体に。 お前方も、手や足を汚くして爪を・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・髷にひっかけ帯のおゆきが、浅吉をあおいでやるのか、母へ風をやるのか分らない団扇のつかいかたをしながら、「ほんとに、うちのあっさんたら、正直なばっかりで一刻もんだもんですからねえ、つい二三日前もね、奥様」という工合で、いつまでも喋った・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・クリスチャンということをこの頃強調する片山首相夫人は、営養失調で死んだ判事の事件に対して新聞記者のインタービューに答え「そこは奥様が少しなんとかね」と語っている。首相宅では闇買いはちっともしないでやっている。ときどきみなさまの下さるものは、・・・ 宮本百合子 「再版について(『私たちの建設』)」
・・・「どう致しまして。あれがわたくしの一生の教訓になりましたのでござりました。もうお暇を致します。「泊まって行かんか。己の内は戦地と同じで御馳走はないが。」「奥様はいらっしゃりませんか。」「妻は此間死んだ。」「へえ。それはど・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・そんならあの姿が意気な奥様らしいと云おうか。それも適当ではない。どうも僕にはやはりさっき這入った時の第一の印象が附き纏っていてならない。それはふと見て病人と看護婦のようだと思った。あの刹那の印象である。 僕がぼんやりして縁側に立っている・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・「お気の毒ですが、多分、あなたの奥様は、」「分りました。」と彼はいった。「この月いっぱいだろうと思いますが……」「ええ。」「私たちは出来るだけのことをやったのですが。……何分……」「どうも、いろいろ御迷惑をおかけしま・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・やがて二頭曳の馬車の轟が聞えると思うと、その内に手綱を扣えさせて、緩々お乗込になっている殿様と奥様、物慣ない僕たちの眼にはよほど豪気に見えたんです。その殿様というのはエラソウで、なかなか傲然と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫