・・・百日紅の大木の蟠った其縁先に腰をかけると、ここからは池と庭との全景が程好く一目に見渡されるようになっている。苗のまだ舒びない花畑は、その間の小径も明かに、端から端まで目を遮るものがないので、もう暮近いにも係らず明い心持がする。池のほとりには・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなかったのに――当人ももうだいぶ好くなったから明日あたりから床を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・一通り中好くして睦じく奇麗に附合うは宜し。我輩も勉めて勧告する所なれども、真実親愛の情に至て彼れと此れと果して同様なるを得べきや否や。我輩は人間の天性に訴えて叶わぬことゝ断言するものなり。一 嫉妬の心努ゆめゆめ発すべからず。男婬・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・丁度タクススの樹の蔭になって好くは見えません。主人。皆な男かい。家来。いえ、男もいますし女もいます。乞食らしい穢い扮装ではございません。銅版画なんぞで見るような古風な着物を着ているのでございます。そしてそのじいっと坐っている様子の気・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・私は自分の体を入れておく場所については、最も単純なのを好くようになりました。元からそうであったが猶そうなったから。いろいろの思い出、伝記、保存しなければならぬ責任、そういうものを欲しません。 私は或一人の作家の生涯について二百五十・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・はてなと思って好く聞いて見ると、飲んでも二三杯だと云うのですから、まさか肝臓に変化を来す程のこともないだろうと思います。栄養は中等です。悪性腫瘍らしい処は少しもありません」「ふん。とにかく見よう。今手を洗って行くから、待ってくれ給え。一・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・世間でおめかしをした Adonis なんどと云う性で、娘子の好く青年士官や、服屋の見本にかいてある男にある顔なのです。そこでわたくしは非常に反抗心を起したのです。どうにかして本当の好男子になろうとしたのですね。 女。それはわたくしに分か・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・と彼は云うと、威勢好く表へ立った。 勘次は秋三の微笑から冷たい風のような寒さを感じた。彼は暫く庭の上を見詰めたまま動けなかった。「すまんこっちゃわ、えらい厄介かけてのう、大きに大きに。」 勘次も安次に叩頭されればされる程、不思議・・・ 横光利一 「南北」
・・・一体気分が好くないのだから、こんなことを見付けて見れば、気はいよいよ塞いで来る。紙巻烟草に火を附けて見たが、その煙がなんともいえないほど厭になったので、窓から烟草を、遠くへ飛んで行くように投げ棄てた。外は色の白けた、なんということもない三月・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・したがって思想傾向も、一切を取り入れて統一しようという無傾向の傾向であって、好くいえば総合的、悪く言えば混淆的である。その主張を一語でいうと、神儒仏の三者は同一の真理を示している、一心すなわち神すなわち道、三にして一、一にして三である、とい・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫