・・・実際またそうでもしなければ、残金二百円云々は空文に了るほかはなかったのでしょう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さえ一人もなかったのですから。 当時の三百円は大金だったでしょう。少くとも田舎大工の半之丞には大金だったのに違いありません。半・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・大友雄吉も妻子と一しょに三畳の二階を借りている。松本法城も――松本法城は結婚以来少し楽に暮らしているかも知れない。しかしついこの間まではやはり焼鳥屋へ出入していた。……「Appearances are deceitful ですかね。」・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 根雪になると彼れは妻子を残して木樵に出かけた。マッカリヌプリの麓の払下官林に入りこんで彼れは骨身を惜まず働いた。雪が解けかかると彼れは岩内に出て鰊場稼ぎをした。そして山の雪が解けてしまう頃に、彼れは雪焼けと潮焼けで真黒になって帰って来・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・余事はともかく、第一に君は二年も三年も妻子に離れておって平気なことである。そういえば君は、「何が平気なもんか、万里異境にある旅情のさびしさは君にはわからぬ」などいうだろうけれど、僕から見ればよくよくやむを得ぬという事情があるでもなく、二年も・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・然も互いに妻子を持てる一ぱしの人間であるのに、磊落と云えば磊落とも云えるが、岡村は決して磊落な質の男ではない。それにしても岡村の家は立派な士族で、此地にあっても上流の地位に居ると聞いてる。こんな調子で土地の者とも交際して居るのかしらなど考え・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・そして、僕が残酷なほど滅多に妻子と家とを思い浮べないのは、その実、それが思い浮べられないほどに深く僕の心に喰い込んでいるからだという気がした。「ええッ、少し遊んでやれ!」 こう決心して、僕はなけなしの財布を懐に、相変らず陰欝な、不愉・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・とりわけ毎日新聞社は最も逼迫して社員の給料が極めて少かった。妻子を抱えているものは勿論だが、独身者すらも糊口がし兼ねて社長の沼南に増給を哀願すると、「僕だって社からは十五円しか貰わないよ」というのが定った挨拶であった。増給は魯か、ドンナ苦し・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ その老臣は、謹んで天子さまの命を奉じて、御前をさがり、妻子・親族・友人らに別れを告げて、船に乗って、東を指して旅立ちいたしましたのであります。その時分には、まだ汽船などというものがなかったので、風のまにまに波の上を漂って、夜も昼も東を・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・「妻子養うに十分の収益あり」という甘い文句の見出しで、店舗の家賃、電灯・水道代は本舗より支弁し、薬は委託でいくらでも送る。しかも、すべて卓効疑いのない請合薬で、卸値は四掛けゆえ十円売って六円の儲けがある。なお、売れても売れなくても、必ず・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・これから大阪へ帰っても、果して妻や子は無事に迎えてくれるだろうかと、消息の絶えている妻子のことを案じているせいかも知れなかった。 そう思うと、白崎の眉はふと曇ったが、やがてまた彼女と語っている内に、何か晴々とした表情になって来た。 ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫