・・・日常茶飯事の欠伸まじりに倦怠期の夫婦が行う行為と考えてみたり、娼家の一室で金銭に換算される一種の労働行為と考えてみたりしたが、なお割り切れぬものが残った。円い玉子も切りようで四角いとはいうものの、やはり切れ端が残るのである。欠伸をまじえても・・・ 織田作之助 「世相」
・・・悔恨と焦躁の響きのような鴨川のせせらぎの音を聴きながら、未知の妓の来るのを待っている娼家の狭い部屋は、私の吸う煙草のけむりで濛々としていた。三条京阪から出る大阪行きの電車が窓の外を走ると、ヘッドライトの灯が暗い部屋の中を一瞬はっとよぎって、・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・私はそんなところには一種の嗅覚でも持っているかのように、堀割に沿った娼家の家並みのなかへ出てしまった。藻草を纒ったような船夫達が何人も群れて、白く化粧した女を調戯いながら、よろよろと歩いていた。私は二度ほど同じ道を廻り、そして最後に一軒の家・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・文明のどん底、東ロンドンの娼家の戸口から、意気でデスペラドのマッキー・メッサーが出てくる。その家の窓からおかみが置き忘れたステッキを突きだすのを、取ろうとすると、スルスルと仕込みの白刃が現われる。ドック近くの裏町の門々にたたずむ無気味な浮浪・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・パン屋の竈の跡や、粉をこねた臼のようなものもころがっていた。娼家の入り口の軒には大きな石の penis が壁から突き出ていた。大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こうの辻でわれわれを待ち合わせるように取り計らわれた。街路の人道から入り・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなし・・・ 永井荷風 「上野」
・・・その頃裏田圃が見えて、そして刎橋のあった娼家で、中米楼についでやや格式のあったものは、わたくしの記憶する所では京二の松大黒と、京一の稲弁との二軒だけで、その他は皆小格子であった。『今戸心中』が明治文壇の傑作として永く記憶せられているのは・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・至るところに日影が深く、町全体が青樹の蔭のようにしっとりしていた。娼家らしい家が並んで、中庭のある奥の方から、閑雅な音楽の音が聴えて来た。 大通の街路の方には、硝子窓のある洋風の家が多かった。理髪店の軒先には、紅白の丸い棒が突き出してあ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫