・・・己はそうまでして、女に媚びるあの男をいじらしく思うのだ。あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種の満足を与えてくれるからかも知れない。 しかしそう云えるほど、己は袈裟を愛しているだろうか・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・徒らに、特権階級に媚びる文学は、小説といわず、少年少女の教育に役立つ読物といわず、またこの弊に陥っています。そのことが、いかに、純情、無垢な彼等の明朗性を損うことか分らないのみならず、真の勇気を阻止し、権力の前に卑屈な人間たらしめることにな・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私は、そうでないと思う。私は別段、れいの唯物論的弁証法に媚びるわけではないが、少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれ・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・それで精一杯の愛嬌を浮かべて媚びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に蝙蝠傘をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって舷や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・二人の愛のゆるがない調和が流れているけれども、はっきりと外界に向って目をみひらき、媚びるところの一つもない口元を真面目に閉じているイエニーの顔つきには、人生と真向きに立っている妻の毅然とした力が感じられる。 この写真はいつ何処でとられた・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・しかもそれが、罪人の間に往々見受けるような、温順を装って権勢に媚びる態度ではない。 庄兵衛は不思議に思った。そして舟に乗ってからも、単に役目の表で見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしていた。 その日は暮れ方か・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫