・・・ 平太郎には当時十七歳の、求馬と云う嫡子があった。求馬は早速公の許を得て、江越喜三郎と云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、敵打の旅に上る事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を免れなかったのか、彼もまた後見のために旅立ちたい旨を申し・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・しかし今ではこれを立派な嫡子として認めない人はおそらくないであろう。 オペラが総合芸術だと言われた時代があった。しかし今日において最も総合的な芸術は映画の芸術である。絵画彫刻建築は空間的であるが時間的でなく、音楽は時間的であるが空間的で・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
人間文化の進歩の道程において発明され創作されたいろいろの作品の中でも「化け物」などは最もすぐれた傑作と言わなければなるまい。化け物もやはり人間と自然の接触から生まれた正嫡子であって、その出入する世界は一面には宗教の世界・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・と銘をつけた三斎公は、天晴なりとして、討たれた横田嫡子を御前によび出し、盃をとりかわさせて意趣をふくまざる旨を誓言させた。その後、その香木は「白菊」と銘を改め細川家にとって数々の名誉を与えるものとなったのであるが、彌五右衛門は、三斎公に助命・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・フェルナンデスのヒューマニズムも、知識人とその知性というものを社会生活の現実階級との関係において見ず、抽象化している点でN・R・Fの最も望ましからぬ精神傾向の伝統的な嫡子の一人なのである。そして、近代芸術において「行為的主権を証左したもの」・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・と、いかにも当時の文学雰囲気の嫡子らしく、自己というものの社会性には目をそらしているのである。彼の現実認識のよりどころは個性の感性に置かれているのであったが、その感性そのものも「オフェリア遺文」が計らずも告白している通り統一された具象性を持・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・松尾宗房と云い、伊賀国上野町の城代藤堂家の家臣で、少年から青年時代のはじまりはその城代の嫡子の近侍をしていた。既にその時代、俳諧は大流行していて若殿自身蝉吟という俳号をもって、談林派の俳人季吟の弟子であった。宗房もその相手をし早くから俳諧に・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・名をお千の方という。嫡子六丸は六年前に元服して将軍家から光の字を賜わり、光貞と名のって、従四位下侍従兼肥後守にせられている。今年十七歳である。江戸参勤中で遠江国浜松まで帰ったが、訃音を聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚と改めた。二男鶴千代・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子光賢卿に松向寺殿の御息女万姫君を妻せ居られ候故に候。さて景一光広卿を介して御当家御父子とも御心安く相成りおり候。田辺攻の時、関東に御出遊ばされ候三斎公は、景一が外戚の従弟たる森三右衛門を使に田辺へ差・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・かくて直ちに相役の嫡子を召され、御前において盃を申つけられ、某は彼者と互に意趣を存ずまじき旨誓言致し候。 これより二年目、寛永三年九月六日主上二条の御城へ行幸遊ばされ、妙解院殿へかの名香を御所望有之、すなわちこれを献ぜらる、主上叡感有り・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫