・・・僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすってくれる。唯それ等の画中の人物はいずれも狐の顔をしていた。 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の為よりも衰弱の為に死んだのであろう。その死の前後の記憶だけは割り合には・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・が、子女の父兄は教師も学校も許す以上はこれを制裁する術がなく、呆然として学校の為すままに任して、これが即ち文明であると思っていた。 自然女学校は高砂社をも副業とした。教師が媒酌人となるは勿論、教師自から生徒を娶る事すら不思議がられず、理・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・良家の子女が読んでも眉をひそめないような小説が書いてほしいのであろう。私の小説を読むと、この作者はどんな悪たれの放蕩無頼かと人は思うに違いないと、家人にはそれが恥しいのであろう。親戚の女学校へ行っている娘は、友達の間で私の名が出るたび、肩身・・・ 織田作之助 「世相」
・・・道太は少年のころ、町へおろされたその芝居小屋に、二十軒もの茶屋が、両側に並んで、柿色の暖簾に、造花の桜の出しが軒に懸けつらねられ、観客の子女や、食物を運ぶ男衆が絡繹としていたのを、学校の往復りに見たものであった。延若だの団十郎だの蝦十郎だの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・曾て東京に一士人あり、頗る西洋の文明を悦び、一切万事改進進歩を気取りながら、其実は支那台の西洋鍍金にして、殊に道徳の一段に至りては常に周公孔子を云々して、子女の教訓に小学又は女大学等の主義を唱え、家法最も厳重にして親子相接するにも賓客の如く・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ただし俊秀の子女は、いまだ五科を経ざるも中学に入れ、官費をもって教うるを法とす。目今この類の者、男子八人、女子二人あり。内一人は府下髪結の子なりという。 各校にある筆道、句読、算術師のほかに、巡講師なる者あり。その数およそ十名。六十四校・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・ ゆえに、子女の養育に注意する人は、そのようやく長ずるにしたがって次第に世間の人事にあたらしむるの要用なるを知り、あるいは飲酒といい演劇といい、謹慎着実なる父母の目には面白からぬ事ながら、とうていこれを禁ずべきに非ざれば、この好むところ・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・父母の品行方正にして其思想高尚なれば自から家風の美を成し、子女の徳義は教えずとても自然に美なる可し。左れば父母たる者の身を慎しみ家を治むるは独り自分の利益のみに非ず、子孫の為めに遁る可らざる義務なりと知る可し。一 家の美風その箇条は様々・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・病身なる父母は健康なる児を生まず、不徳の家には有徳なる子女を見ず。有形無形その道理は一なり。あるいは夫婦不徳の家に孝行の子女を生じ、兄弟姉妹団欒として睦まじきこともあらば、これは不思議の間違いにして、稀に人間世界にあるも、常に然るを冀望すべ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・日本の紡績工業者は、新卒業子女の大部分に当る十万八千三百六十八人を就職させようとしているが、日本の紡績工業界は永年、少女たちを搾取する傾向で世界に有名である。このような封建的な思想を違法とするいくつかの法律がきめられたが、少女たちも親たちも・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
出典:青空文庫