・・・それに驚くべきことだが、字引を引いたことがないという。第一字引というものを持っていない。引くのが面倒くさいので、買わぬらしい。「字引を持たぬ小説家はまア君一人だろう」 私は呆れた。 一事が万事、非常なズボラさだ。 細君が生き・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ そういう訳で銘々勝手な本を読みますから、先生は随分うるさいのですが、其の代り銘々が自家でもって十分苦しんで読んで、字が分らなければ字引を引き、意味が取れなければ再思三考するというように勉強した揚句に、いよいよ分らないというところだけを・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ナンノつまらない、死という言語は千年もたてば字引の中になくなるべき言語だよ。ナニ驚くには足らない、極りきッた論サ。死は休なりとか、死は静なりとか、死は動力の不存在なりとか、死は自営的機能の力が滅して他の勢力のみ働らく場合なりとか、色々の理屈・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・ その日の夕方思い付いて字引でみのむしというのを引いてみると、この虫の別名として「木螺」というのがあった。なるほど這って行く様子はいかにも田螺かあるいは寄居虫に似ている。それからまた「避債虫」という字もある。これもなかなか面白いと思った・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 東京の家からは英語の教科書に使われていたラムの『沙翁物語』、アービングの『スケッチブック』とを送り届けてくれたので、折々字引と首引をしたこともないではなかった。 わたくしは今日の中学校では英語を教えるのに如何なる書物を用いているか・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・文章ではなくって字引である。 同時に多くのイズムは、零砕の類例が、比較的緻密な頭脳に濾過されて凝結した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓である。中味のないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳み込むのは、天保銭を脊負う代り・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・演説でも英吉利人が解るものならば日本人が字引を引いて解らないことはないはずである。が、実際解らない本です。その解らない物を教えた時に丁度速水君が生徒だったから、偉くない偉くないという考えが何時までも退かないのかも知れません。それでその後英語・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・のごとく「オートミール」を第一に食う。これは蘇格土蘭人の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食う、我々は砂糖を入れて食う。麦の御粥みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には「オートミール」……蘇国にては人が食い英国にては馬が食う・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・同君は上にいったように、その頃からギリシャ語を始められ、いつも閲覧室で字引を引いて、少しずつソクラテス以前の哲学者のものを読んでおられたようであった。あの人は何処かケーベルさんと似た所があった。私は岩元君とは明治二十七年卒業以来、逢う機会が・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・これにてたいてい洋書を読む味も分り、字引を用い先進の人へ不審を聞けば、めいめい思々の書をも試みに読むべく、むつかしき書の講義を聞きても、ずいぶんその意味を解すべし。まずこれを独学の手始とす。かつまた会読は入社後三、四ヶ月にて始む。これにて大・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
出典:青空文庫