・・・短い日が存分西に廻って、彼の周囲には、荒くれた北海道の山の中の匂いだけがただよっていた。 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりして・・・ 有島武郎 「親子」
・・・腐るべきものは木の葉といわず小屋といわず存分に腐っていた。 仁右衛門は眼路のかぎりに見える小作小屋の幾軒かを眺めやって糞でも喰えと思った。未来の夢がはっきりと頭に浮んだ。三年経った後には彼れは農場一の大小作だった。五年の後には小さいなが・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・椅子からすべり下りると敷石の上に身を投げ出して、思い存分泣いた。その小さい心臓は無上の歓喜のために破れようとした。思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・つまり堂脇のじじいが僕たちの運命をすっかり狂わしてしまったんだよ……どうだ少しドモ又に似てきたか……他人の運命を狂わした罪科に対して、堂脇は存分に罰せらるべきだよ。沢本 そうだとも。なにしろあいつの金力が美の標準をめちゃくちゃにするた・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ と存分に痰呵を切ってやりたかった。彼はいじいじしながら、もう飛び出そうかもう飛び出そうかと二の腕をふるわせながら青くなって突っ立っていた。「えい、退きねえ」 といって、内職に配達をやっている書生とも思わしくない、純粋の労働者肌・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・が、伊藤八兵衛の智嚢として円転滑脱な才気を存分に振ったにしろ、根が町人よりは長袖を望んだ風流人肌で、算盤を持つのが本領でなかったから、維新の変革で油会所を閉じると同時に伊藤と手を分ち、淡島屋をも去って全く新らしい生活に入った。これからが満幅・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・極端にいえば、思想さえ思う存分に発現する事が出来るなら方式や修辞は革命家の立場からはドウでも宜かるべきはずである。二葉亭も一つの文章論としては随分思切った放胆な議論をしていたが、率ざ自分が筆を執る段となると仮名遣いから手爾於波、漢字の正訛、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・たゞ美しいと思えば、それでいゝ、そして人間は、幾何もない生を存分に享楽することが出来れば、それでいゝのであります。 しかし、今の世の中で、この春に遇って、木々の咲く、花を眺め、この若やかな、どんな絵具で描いてみても、この生命の跳る色は出・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・前日の軽はずみをいささか後悔していた紀代子は、もう今日は相手にすまいと思ったが、しかし今日こそ存分にきめつけてやろうという期待に負けて、並んで歩いた。そして、結局は昨日に比べてはるかに傲慢な豹一に呆れてしまった。彼女の傲慢さの上を行くほどだ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ならとにかく、根っから夫婦一緒に出歩いたことのない水臭い仲で、お互いよくよく毛嫌いして、それでもたまに大将が御寮人さんに肩を揉ませると、御寮人さんは大将のうしろで拳骨を振り舞わし、前で見ている女子衆を存分に笑わせた揚句、御亭主の頭をごつんと・・・ 織田作之助 「大阪発見」
出典:青空文庫