・・・女は凡てのこと従順にして静かに道を学ぶべし。われ、女の、教うる事と、男の上に権を執る事を許さず、ただ静かにすべし。それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。アダムは惑わされず、女は惑わされて罪に陥りたるなり。されど女もし慎みて信仰と愛と・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ これらの原始的の影法師と現在の有声映画には数世紀の隔たりがあるにかかわらず、現在の映画はこのただの影法師から学ぶべきものを多くもっているかもしれない。 有声映画に取り入れられる音声も、単に話の筋道をはこぶための会話の使用にはたいて・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・たとえばAかBかのほかには何物も有り得ないという仮定のもとに或る人間の問題を取り扱っている際に、ある物質界の現象を学ぶことによって忽然として、他にCの可能性の存在を忘却していたということに気がつくことがしばしば有りうるであろう。 誤った・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・科学の目的といえばもともと自然から学ぶということよりほかには何物もないはずであるのに、いつのまにかこの事を忘れ思い上がった末には、あべこべに人間が自然を教えでもするもののような錯覚を起こす。これもおもしろい現象である。こういう思い違いをする・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・まだ巴里にあった頃わたくしは日本の一友人から、君は頻にフロオベルを愛読しているが、君の筆はむしろドーデを学ぶに適しているようだ、と忠告されたこともあった。二葉亭の『浮雲』や森先生の『雁』の如く深刻緻密に人物の感情性格を解剖する事は到底わたく・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・哲学は自己を否定すること、自己を忘れることを学ぶのである。この世界歴史の大転換期に当って、何処までも日本文化の根柢を掘り下げて、我々の思想は深く大なる基礎の上に築き上げられなければならない。真の行動のためには、デカルトもいう如く省察と認識と・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ケーベルさんは始めて日本へ来て、日本の学生が古典語を知らないで哲学を学ぶということが、如何にも浅薄に感ぜられたらしい。私が或日先生を訪問してアウグスチヌスの近代語訳がないかとお聞きしたところ、先生はお前はなぜ古典語を学ばないかといわれた。私・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・ただに今日、熱中奔走する者のみならず、内外に執行する書生にいたるまでも、法律を学ぶ者は司法省をねらい、経済学に志す者は大蔵省を目的とし、工学を勉強するは工部に入らんがためなり。万国公法を明らかにするは外務の官員たらんがためなり。かかる勢にて・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・この時また文法書を学ぶ。文法を知らざれば、書を読みて、その義理を解する事、能わず。我が言葉をもって我が意を達するに足らず。言葉、意を達するに足らざるものは、唖子に異ならず。第三、地理書 地球の運転、山野河海の区別、世界万国の・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・ここにおいてか、剣術の道場を開て少年を教る者あり(旧来、徒士以下の者は、居合い、柔術、足軽は、弓、鉄砲、棒の芸を勉るのみにて、槍術、剣術を学ぶ者、甚だ稀。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀にわかに面目を改め、また先き・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫