・・・「見世物になっているのです。」私は事情をかいつまんで報告した。「淀江村! それならたしかだ。いくらだ。」「一丈です。」「何を言っている。ねだんだよ。」「十銭です。」「安いね。嘘だろう。」「いいえ、軍人と子供は半額・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・正月の初めにもっと家賃の安い家を別な方面にさがして、遁げるようにして移転して行った。刑事の監視をのがれたいという腹もあった。出来るならば、この都会の群集と雑沓との中に巧みにまぎれ込んで了いたいと思った。しかしそれは矢張徒労であった。一週間と・・・ 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
・・・骨董品というほどでなくても、三越等の陳列棚で見る新出来の品などから比較して考えてみても、六円というのはおそらく多くの蒐集者にとっては安いかもしれない。しかし私はなんだか自分などの手に触るべからざる贅沢なものに触れたような気がしたので、急いで・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・面倒な理窟や計算は抜きにしても少なくも病院にはいるより安いことだけはたしかである。 試みにある日曜の昼過ぎから家族四人連れで奥多摩の入口の辺までという予定で出かけた。青梅街道を志して自分で地図を見ながら、地理を知らぬ運転手を案内して進行・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・茶碗の底を見ると狩野法眼元信流の馬が勢よく跳ねている。安いに似合わず活溌な馬だと感心はしたが、馬に感心したからと云って飲みたくない茶を飲む義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった。「さあ飲みたまえ」と津田君が促がす。「この馬はな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・それで三円だと云う。安いなあ豊隆と云っている。豊隆はうん安いと云っている。自分は安いか高いか判然と判らないが、まあ安いなあと云っている。好いのになると二十円もするそうですと云う。二十円はこれで二返目である。二十円に比べて安いのは無論である。・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわから・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・婦人のためばかりではなく男のためでもある。婦人の安い労働賃金、青少年の安い労働賃金、それはいつも成年男子の賃金の安定を脅かして来た。失業の予備軍となっている。しかしそういう点で共通の幸福を守ること、その協力の意味を理解しない男の人たちは、組・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・そこで私は君を、私の心安い宿屋に紹介する。宿屋では私に対する信用で、君を泊まらせて食わせて置く。その間に私は君のために位置を求める。それも、君だけの材能があって見れば、多少の心当がないでもない。若し旨く行ったら、君は自ら贏ち得た報酬で宿屋の・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・あのな、生繻子の丸帯が出たのやが、そりゃ安いのや、買わいせな。」とお留は云った。「それよりお前とこの秋って、どうも仕様のない奴やぞ。株内やぬかしてからに、わしとこへお前、安次みたいな者引っ張って来さらしてさ。お前とこが困るなら、わしとこ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫