・・・ 夜になったときに、お姫さまは、みんな自分のような貧しいようすをした旅人ばかりの泊まる安宿へ、入って泊まることになされました。そこには、ほんとうに他国のいろいろな人々が泊まり合わせました。そして、めいめいに諸国で見てきたこと、また聞いた・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・ その夜は千日前の安宿に泊った。朝、もう新聞社へ行く気もしなかった。毎日就職口を探して歩いたが、家出した男を雇ってくれるところもなかった。月給袋のなかの金が唯一の所持金だったが、だんだんにそれもなくなって行った。半分は捨鉢な気持で新・・・ 織田作之助 「雨」
・・・その辺の附近の安宿に行くほか、何処と云って指して行く知合の家もないのであった。子供等は腰掛へ坐るなり互いの肩を凭せ合って、疲れた鼾を掻き始めた。 湿っぽい夜更けの風の気持好く吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛った。生存・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・けれど、どうだい、はじめて逢った兄なるものは、あんな安宿でごろごろしていて、風采もぱっとせず、さびしくないか。」「いいえ。」はっきり否定したが、どこか気まずそうに見えた。さびしいのだ。こういう人が在ると知ったら、私は、せめて中学校の先生・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
出典:青空文庫