・・・裳川先生はその頃文部省の官吏で市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた。玄関から縁側まで古本が高く積んであったのと、床の間に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあった事を、わたくしは今でも忘れずにお・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・田舎のどこの小さな町でも、商人は店先で算盤を弾きながら、終日白っぽい往来を見て暮しているし、官吏は役所の中で煙草を吸い、昼飯の菜のことなど考えながら、来る日も来る日も同じように、味気ない単調な日を暮しながら、次第に年老いて行く人生を眺めてい・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・家に遺伝の遺産ある者、又高運にして新に家を成したる者、政府の官吏、会社の役人、学者も医者も寺の和尚も、衣食既に足りて其以上に何等の所望と尋ぬれば、至急の急は則ち性慾を恣にするの一事にして、其方法に陰あり陽あり、幽微なるあり顕明なるあり、所謂・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ そもそも位階勲章なるものは、ただ政府中に限るべきものに非ず。官吏の辞職するは政府を去るものなれども、その去るときに位階勲章を失わず、あるいは華族の如き、かつて政府の官途に入らざるも必ず位階を賜わるは、その家の栄誉を表せらるるの意ならん・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・それはどんな社会だと云うと、国家枢要の地位を占めた官吏の懐抱している思想と同じような思想を懐抱して、著作に従事している文士の形づくっている一階級である。こう云う文士はぜひとも上流社会と同じような物質的生活をしようとしている。そしてその目的を・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・「職業、官吏、位階十八等官、年齢、本籍、現住、この通りかね。」警部はわたしの名やいろいろ書いた書類を示しました。「そうです。」「では訊ねるが、君はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこへかくしたか。」「農夫のファゼーロ?」わたくしは・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・文学は、当時の軍人、官吏、実業家の中心問題をその中心課題とすべきだという「大人の文学論」。客観的には、批判の精神を否定して、「知らしむべからず、よらしむべし」の全体主義文化政策に知識人が屈従するための合理化となった「文化平衡論」。「文学の非・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・検事という職務の官吏が、みんな自家用自動車で通勤してはいない。弁当の足りないことを心のうちに歎じつつ、彼等も人の子らしく、おそろしい電車にもまれて、出勤し、帰宅していると思う。官吏の経済事情は、旧市内のやけのこったところに邸宅をもつことは許・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
木村は官吏である。 ある日いつもの通りに、午前六時に目を醒ました。夏の初めである。もう外は明るくなっているが、女中が遠慮してこの間だけは雨戸を開けずに置く。蚊の外に小さく燃えているランプの光で、独寝の閨が寂しく見えている。 器・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・自動車を飛ばせて行く官吏、政治家、富豪の類である。帝国ホテルが近いから夕方にでもなれば華やかに装った富豪の妻や娘もそれに混じるであろう。公共の任務のために忙しく自動車を駆るものは致し方がないが、私利をはかるために、またはホテルで踊るために、・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫