・・・何に限らず正当なる権利を正当なりなぞと主張する如きは聞いた風な屁理窟を楯にするようで、実に三百代言的、新聞屋的、田舎議員的ではないか。それよりか、身に覚えなき罪科も何の明しの立てようなく哀れ刑場の露と消え……なんテいう方が、何となく東洋的な・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・この時は実に余の名の記入初であった。なるべく丁寧に書くつもりであったが例に因ってはなはだ見苦しい字が出来上った。前の方を繰りひろげて見ると日本人の姓名は一人もない。して見ると日本人でここへ来たのは余が始めてだなと下らぬ事が嬉しく感ぜられる。・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・彼は実に非哲学者的な哲学者である。日常的題目を日常的に論じた彼の『エッセー』の中には、時に大げさな体系的哲学以上の真理を含んでいる。歴史的実在の世界は日常的世界である。彼の描いた自己は日常的世界において生きぬいた自己である。しかしそこからは・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・ニイチェこそは、実に近代の苦悩を一人で背負つた受難者であり、我々の時代の痛ましい殉教者であつた。その意味に於て、ニイチェは正しく新時代のキリストである。耶蘇キリストは、万人の罪を一人で背負ひ、罪なくして十字架の上に死んだ。フリドリヒ・ニイチ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 私は白状する。実に苦しいことだが白状する。――若しこの横われるものが、全裸の女でなくて全裸の男だったら、私はそんなにも長く此処に留っていたかどうか、そんなにも心の激動を感じたかどうか―― 私は何ともかとも云いようのない心持ちで興奮・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷へ帰れる。私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」 吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。「他のことなら何とでもなるんだ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・心気粗暴、眼光恐ろしく、動もすれば人に向て怒を発し、言語粗野にして能く罵り、人の上に立たんとして人を恨み又嫉み、自から誇りて他を譏り、人に笑われながら自から悟らずして得々たるが如き、実に見下げ果てたる挙動にして、男女に拘わらず斯る不徳は許す・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そこでこの心持ちが作の上にはどう現れているかと云うと、実に骨に彫り、肉を刻むという有様で、非常な苦労で殆ど油汗をしぼる。が、油汗を搾るのは責めては自分の罪を軽め度いという考えからで、羊頭を掲げて狗肉を売る所なら、まア、豚の肉ぐらいにして、人・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・と書いた Porto-Riche は、実にわれを欺かずである。 ピエエル・オオビュルナンは三十六歳になっている。鬚を綺麗に剃っている。指の爪と斬髪頭とに特別の手入をしている。衣服は第一流の裁縫師に拵えさせる。冷水浴をして sport に・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・君はあの時何といった。実にこの胸に眠っているものを、夜吹く風が遠い便を持って来るようにお蔭で感じるといったのう。実に君は風の伝える優しい糸の音だったよ。ただその風というものが実は誰かの昔吐いた息であったのだ。僕の息でなければ外の人の息であっ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫