・・・と男もニッコリしたが、「何しろまあいいとこで出逢ったよ、やっぱり八幡様のお引合せとでも言うんだろう。実はね、横浜からこちらへ来るとすぐ佃へ行って、お光さんの元の家を訪ねたんだ。すると、とうにもうどこへか行ってしまって、隣近所でも分らないと言・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・「……実は病気をしておりますので。空気の流通をよくしなければいけないんです」 すると、女の顔に思いがけぬ生気がうかんだ。「やっぱり御病気でしたの。そやないかと思てましたわ。――ここですか」 女は自身の胸を突いた。なぜだか、い・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」 彼は起って行って、頼むように云った。「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・いえまだ、実は今宿を出ましたばかりで、と気を置けば言葉もすらりとは出でず、顔もおのずから差し俯向かるるを、それならば御一しょに、ちとそこらを歩いて見ましょう。今日は気も晴々として、散歩には誂え向きというよい天気ですなア。お父様は先刻どこへか・・・ 川上眉山 「書記官」
餅は円形きが普通なるわざと三角にひねりて客の目を惹かんと企みしようなれど実は餡をつつむに手数のかからぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名いつしかその近在に広まり、この茶店の小さいに似合わぬ繁盛、しかし餅ばかりでは上戸が困ると・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・そして実はその倫理的な問いたるや、すでに青年の胸を悩まし、圧しつけ、迷わしめているところの、活ける人生の実践的疑団でなくてはならないのだ。 かくてこそ倫理学の書をひもどくや、自分の悩んでいる諸問題がそこに取り扱われ、解決を見出さんとして・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・そこの消息を見抜いている×××は、表面やかましく云いながら、実は大目に見のがした。五十銭銀貨を一つ盗んでも禁固を喰う。償勤兵とならなければならない。それが内地に於ける軍人である。軍人は清廉潔白でなければならない。ところが、その約束が、ここで・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・どういう入わけなんですか聴かせて下さい。実はコレコレとネ。女だって、わたしあ、あなたの忠臣じゃありませんか。」 忠臣という言葉は少し奇異に用いられたが、この人にしてはごもっともであった。実際この主人の忠臣であるに疑いない。しかし主人の耳・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・それなら俺だって却々負けずに知っている。実は、その日になると、俺は何時でも壁を打つことで、隣りの同志にイニシアチヴを取られてしまうのだ。今度こそ俺の方から先手を打ってやろう、と待っている、だが、その日になると、又もしてやられるんだ。――九月・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・幕があったと聞きそれもならぬとまた福よしへまぐれ込みお夏を呼べばお夏はお夏名誉賞牌をどちらへとも落しかねるを小春が見るからまたかと泣いてかかるにもうふッつりと浮気はせぬと砂糖八分の申し開き厭気というも実は未練窓の戸開けて今鳴るは一時かと仰ぎ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫