・・・ 満足もしない心持で寺を出たが、ぶらぶら歩きながら頭の中へ浮ばせて見ると、登龍の階でも、それを工夫した人間の感興が却って実物を見ているときより理解されるような気がした。やや湿っぽい山気、松林、そこへ龍を描こうとする着想は、常時生気あるも・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・私は余技アマチュアというものの主観的な特長を一席実物について父に話してきかせました。 おや、耳の中がキーンと云う。変ね。そろそろ寝ろとの知らせでしょう。馬のついた文鎮をのせて又この次。 今は八日の午後三時。ひどい風の音にまじって、隣・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・例えば、或る女学生が、私を三十円で買って下さいという手紙を誰に当てて書いたかといえば、その相手としては外ならぬ会社の重役を選定したという事実の裡に、今日の社会の実物教育が娘たちの心の中に、どんなことを思いつかせる可能を日夜植えつけているかと・・・ 宮本百合子 「昨今の話題を」
・・・ 六十何歳かに達した年で、このように精気のある絵をかく女性の粘りというものに、感服し、よろこびを感じたのであった。実物を見られなくて惜しいという気が切にした。 護国寺の紅葉や銀杏の黄色い葉が飽和した秋の末の色を湛えるようになった・・・ 宮本百合子 「「青眉抄」について」
・・・わたしが実物証明をしてあげるから、あなたの小説が書けなかったわけは、これだけかさばった証明があれば許してくれるわよ、などといっていたときに、玄関で、ごめんなさいという元気なはりのある声がした。つづいてあがってもよくてというなり、もうその足音・・・ 宮本百合子 「その人の四年間」
・・・ 私のその論文めいたものは、作家同盟の機関誌に発表されたものであったから、世間一般の文学愛好者たちや、そういう雑誌をみなかったブルジョア作家たちの間で実物を読んだひとはきわめて少なかっただろうと思う。面白いことには、そういう実際の事・・・ 宮本百合子 「近頃の感想」
・・・薄暗い部屋だから、眼に力をこめて凝視すると、画と実物の貝殼などとのパノラマ的効果が現れ、小っぽけな窓から海底を覗いて居るような幻覚が起らない限でもないのだ――大人にパノラマが珍重された時代が我々の一九二六年迄かえって来る。―― 間もなく・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・君のかく画も、どれ程写生したところで、実物ではない。嘘の積りでかいている。人生の性命あり、価値あるものは、皆この意識した嘘だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。こう云う風に本当を二つに見ることは、カントが元祖で、近頃プラグマチス・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・頭だけが大きく浮き上り、頂上がひどく突角って髪が疎らで頭の地が赤味を帯んでいるのである。実物の春夫氏の頭はよく見て知っているにも拘らず、実物とは全く変っている夢の中のその無気味な頭を、誰だかこれが春夫氏の頭だ頭だとしきりに説明をするのである・・・ 横光利一 「夢もろもろ」
・・・ここに集められた能面は実物を自由に見ることのできないものであるが、写真版として我々の前に置かれて見ると、我々はともどもにその美しさや様式について語り合うことができるであろう。この機会に自分も一つの感想を述べたい。 今からもう十八年の昔に・・・ 和辻哲郎 「能面の様式」
出典:青空文庫