・・・『平凡』の中の犬の一節は二葉亭の作中屈指の評判物であるが、あれは仲猿楽町時代の飼犬の実話を書いたものである。あの行衛知れずになった犬というはポインターとブルテリヤの醜い処を搗交ぜたような下等雑種であって、『平凡』にある通りに誰の目にも余・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 肺病を苦にして自殺をしようと思い、石油を飲んだところ、かえって病気が癒った、というような実話を例に出して、男はくどくどと石油の卓効に就いて喋った。「そんな話迷信やわ」 いきなり女が口をはさんだ。斬り落すような調子だった。 ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・この短い実話を、もう一度繰りかえして読んでみて下さい。ゆっくり読んでみて下さい。薄情なのは、世間の涙もろい人たちの間にかえって多いのであります。芸術家は、めったに泣かないけれども、ひそかに心臓を破って居ります。人の悲劇を目前にして、目が、耳・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます。」澄ましこんでいた。「実話と言いますと?」僕はしつこく尋ねた。「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、その頃の新・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・など、面白くない原稿かいて、実話雑誌や、菊池寛のところへ、持ち込み、殴られて、つまみ出されて、それでも、全部見抜いてしまってあるようなべっとり油くさいニヤニヤ笑いやめない汚いものになるのであろうと思いました。今から、また、また、二十人に余る・・・ 太宰治 「創生記」
・・・そういうこしらえ物でなくて、実際にあった事件を忠実に記録した探偵実話などには、かえって筆者や話者の無意識の中に真におそるべき人間性の秘密の暴露されているものもある。そういうものを、やはり一つの立派な実験文学と名づけることも、少なくも現在の立・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・両親が昔安政の地震に遭難した実話を、子供の時から聞かされていたこともこの畏怖の念を助長する効果はあったかもしれないのであるが、しかしそれにはかかわらず、おそらく地震に対するこの恐怖は本能的なものであった。少なくとも私の子供の時分のそれはちょ・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・それについて思い出すのは次の実話である。スクラインの「シナ領中央アジア」という本の中にある。 東トルキスタンのヤルカンドにミッション付きの歯医者がいた。この人の所へある日遠方の富裕な地主イブラヒム・ベグ・ハジからの手紙をもった使いが来て・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・小説はできても実話はできないのである。 こんなことを考えながら歩いているうちに、いつのまにか数寄屋橋に出た。明るい銀座の灯が暗い空想を消散させた。 紫色のスウィートピーを囲んだ見合いらしいはなやかな晩餐の一団と、亀井戸への道を聞いた・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・そのためには『実話新聞』だの何だのという印刷物も一通りは風俗資料として保存して置きたいと心掛けている。 戦争前、カフェー汁粉屋その他の飲食店で、広告がわりに各店で各意匠を凝したマッチを配布したことがある。これを取り集めて丁寧に画帖に貼り・・・ 永井荷風 「裸体談義」
出典:青空文庫