・・・「私は牧野の家内でございます。滝と云うものでございます。」 今度はお蓮が口ごもった。「さようでございますか。私は――」「いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。」 女・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・あの辺は借家もあるそうですね、家内はあの辺を希望しているんですが――おや、堀川さん。靴が焦げやしませんか?」 保吉の靴はいつのまにかストオヴの胴に触れていたと見え、革の焦げる臭気と共にもやもや水蒸気を昇らせていた。「それも君、やっぱ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・金歯で呼込んで、家内が留守で蕎麦を取る処だ、といって、一つ食わしてくれました。もり蕎麦は、滝の荒行ほど、どっしりと身にこたえましたが、そのかわり、ご新姐――お雪さんに、(おい、ごく内証と云って、手紙を托けたんです。菫色の横封筒……いや、どう・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・この姉だった平吉の前の家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半の嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした処では肖しくなって、女房ぶりも哀に見える。 これも飛脚に攫われて、平吉の手に捕われ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・天気がよければ家内らは運び来った濡れものの仕末に眼の廻るほど忙しい。 家浮沈の問題たる前途の考えも、措き難い目前の仕事に逐われてはそのままになる。見舞の手紙見舞の人、一々応答するのも一仕事である。水の家にも一日に数回見廻ることもある。夜・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・俄かに家内の様子が変る、祭りと正月が一度に来たようであった。 十三 薊が一切を呑み込んで話は無造作にまとまる。二人を結婚さしておいて、省作を東京へやってもよいが、どうせ一緒にいないのだから、清六の前も遠慮して、家を・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「千代は私の家内です、そんな言い分は立ちません」「それでは出しますから」と、母は鍵を持って来て、そッけなく僕の前に置き、台どころの方へ行ってしまった。 僕は箪笥の前に行き、一々その引き出しを明け、おもな衣類を出して見た。大抵は妻・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・十 椿岳の畸行作さんの家内太夫入門・東京で初めてのピヤノ弾奏者・椿岳名誉の琵琶・山門生活とお堂守・浅草の畸人の一群・椿岳の着物・椿岳の住居・天狗部屋・女道楽・明治初年の廃頽的空気 負け嫌いの椿岳は若い時か・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 此の新聞は午前の四時頃になると配達されるので常に家内のものが眠っているうちに戸の隙間から入れて行くのが例であった。私はもしこの時分に起きて家の外に出て道の上に立っていたなら、偶然にこの新聞配達夫が通り過ぎるのを見ないとは限らないと思っ・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・ 毎夜のように町では戸を閉めてから火鉢やこたつに当たりながら、家内の人々がいろいろの話をしていますと、沖の方で遠鳴りのする海の声がものさびしく、もの怖ろしく、ものすさまじく聞こえてくるのでありました。ある夜のこと、海の響きが常よりまして・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
出典:青空文庫