・・・戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」「ええ、知っています。――お父さんはどこかへ行くの?」「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅川の叔母さんが来ているぜ。」 賢造の姿が隠れると・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ぐずぐずしていると、会葬者の宿所を、帳面につけるのもまにあわない。僕はいろんな人の名刺をうけとるのに忙殺された。 すると、どこかで「死は厳粛である」と言う声がした。僕は驚いた。この場合、こんな芝居じみたことを言う人が、僕たちの中にいるわ・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・わたしはいよいよ不安になり、彼女の宿所を教えて貰った。彼女は彼女自身の言葉によれば谷中三崎町にいるはずだった。が、Mの主人の言葉によれば本郷東片町にいるはずだった。わたしは電燈のともりかかった頃に本郷東片町の彼女の宿へ辿り着いた。それはある・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・かの女はその人を子供の時から知ってると言いながら、その呼び名とその宿所とを知っていないのであった。「………」さきの偽筆は自分のために利益と見えたことだが、今のは自分の不利益になる事件が含んでいる代筆だ。僕は、何事もなるようになれというつ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・そして宿所がきまるや、さっそく築地何町何番地、何の某方という桂の住所を訪ねた。この時二人はすでに十九歳。 下 午後三時ごろであった。僕は築地何町を隅から隅まで探して、ようやくのことで桂の住家を探しあてた。容易に分から・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・紹介者に連れて行って貰って、些少の束修――金員でも品物でもを献納して、そして叩頭して御願い申せば、直ちに其の日から生徒になれた訳で、例の世話焼をして呉れる先輩が宿所姓名を登門簿へ記入する、それで入学は済んだ訳なのです。銘々勝手な事を読んで行・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・彼の知人名簿には十年も前に死んだ人の宿所がそのままに残っていて、何の符号も付いていない。また同じ人の名が色々な住所と結合してぱらぱらに散在しているので、どれが現住所であるか、当人でさえ時々間違えることがありそうである。年賀はがきを大切にしま・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・ 彼の時一寸、宿所帳に書きつけて置けば何でもなかったのにと、及ばない後悔が湧いて来る。 もう、一生彼の人には会う機会も、便りをやる所もなくなってしまった様な気がして、彼あ云う家業が家業だけに余計思い患われる。 そんな事を思いなが・・・ 宮本百合子 「曇天」
出典:青空文庫