・・・厄介というても一夜か二夜の宿泊に過ぎんのだ。どうも解らんな。それにしても家の人達はどうしたんだろう。親父さん、お母さん、それからお繁さん、もう寝たのかしら。お繁さんはきっと家に居ないに違いない。お繁さんが居れば、まさかこんなにおれに厭な思い・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・男は、今宮へ行けば市営の無料宿泊所もあるが、しかし、人間そんな所の厄介になるようではもうしまいだと言いながら、その小屋に泊めてくれました。 翌朝、男は近くの米屋から四合十銭の米と、八百屋から五銭の青豌豆を買ってきて、豌豆飯を炊いて、食べ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・冬ざれた溪間の旅館は私のほかに宿泊人のない夜がある。そんな部屋はみな電燈が消されている。そして夜が更けるにしたがってなんとなく廃墟に宿っているような心持を誘うのである。私の眼はその荒れ寂びた空想のなかに、恐ろしいまでに鮮やかな一つの場面を思・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・「なに、どうせ二晩三晩は宿泊のですから急がないでも可いのです。」と平気で盤に向っているので、紳士もその気になり何時かお正の問題は忘れて了っている。 浴室では神崎、朝田の二人が、今夜の討論会は大友が加わるので一倍、春子さんを驚かすだろ・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ ――ええ、女が帝国ホテルへ遊びに来て、僕がボオイに五円やって、その晩、女は私の部屋へ宿泊しました。そうして、その夜ふけに、私は、死ぬるよりほかに行くところがない、と何かの拍子に、ふと口から滑り出て、その一言が、とても女の心にきいたらし・・・ 太宰治 「虚構の春」
伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索寞たる山村を選んだ。昭和十五年、七月三・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ロシア人で宿泊しているものはないかと申すことで。」「なぜロシア人というのだろう」と、おれは切れぎれに云った。「襟に商標が押してございまして、それがロシアの商店ので。」 おれは椅子から立ち上がった。「もういいもういい。そこで幾・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ばれて、時には宿泊人届の一枚も手伝ってやる事もある。宿の主人は六十余りの女であった。昼は大抵沖へ釣りに出るので、店の事は料理人兼番頭の辰さんに一任しているらしい。沖から帰ると、獲物を焼いて三匹の猫・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・よく聞いてみると、当時高名であった強盗犯人山辺音槌とかいう男が江の島へ来ているという情報があったので警官がやって来て宿泊人を一々見て歩き留守中の客の荷物を調べたりしたというのである。強盗犯人の嫌疑候補者の仲間入りをしたのは前後にこの一度限り・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・姉の家で普請をしていた時に、田舎から呼寄せられて離屋に宿泊していた大工の杢さんからも色々の話を聞かされたがこれにはずいぶん露骨な性的描写が入交じっていたが、重兵衛さんの場合には、聴衆の大部分が自分の子供であったためにそういう材料はことさらに・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
出典:青空文庫