・・・ が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ聞こえそうな寂寥を、鈍くつんざいていた。 安岡は、耳だけになっていた。 プツッ! と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。腐屍の臭いが、安岡・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・フの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食いものの為に骨を折っているうちに陽子は悲しく自分が哀れで涙が出そうになって来た、家庭を失った人間の心の寂寥があたりの夜から迫って来た、陽子は手・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ただ、寂寥々とした哀愁が、人生というもの、生涯というものを、未だ年に於て若く、仕事に於て未完成である自分の前途にぼんやりと照し出したのです。 けれども、その某博士が逝去されたという文字を見た瞬間、自分の胸を打ったものは、真個のショックで・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・嘗て わたしの歓に於て無二であった人今はこの寂寥を生む無二の人貴方は何処の雲間に見なれたプロファイルを浮べて居ますか。 三十一日うたわず 云わぬ我心を西北の風よかなたの胸に 吹きおくれ・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・が、今ここには美しい寂寥がみち拡がっている。 室内にはやや色のさめた更紗張の椅子、同じ布張のテーブルがおいてある。二人の日本女は急に静かで頭の芯がジーンとなったような気持で顔を洗った。 戸を叩いて、 ――もういいですか? 停・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・愛する者を次々に送って、最後に自分の番になる寂寥を思うと殆ど堪え難く成った。 日数が経つと、そんな感情の病的に弱々しい部分は消えた。私は再び自分の健康も生も遠慮なく味い出した。私はやはり日向で、一寸したことに喜んで、高い声をあげてはあは・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・重い苦しい寂寥では無い。今日の空気のように平明な心が、微かながら果もなく流れ動く淋しさである。 隅から隅まで小波も立てずに流れる魂の上に、種々の思いが夏雲のように湧いて来る。真個に――。考えではない、思いである。 歌を詠みたい。けれ・・・ 宮本百合子 「追慕」
・・・の天地、そこには、北国に於て見るあの寂寥の影が何処にも見出せませんでした。そして何処へ行っても、落ち付いた誇りの色――いつまでも、何時までも忘れないというような過去の誇りの色を発見して、私は何ともいわれない懐しさを覚えました。 ・・・ 宮本百合子 「「奈良」に遊びて」
・・・ 仮令感傷的だと云う点で非難はされるとしても、彼が深夜、孤り胸を満す寂寥に堪えかねて書いた文字は、自分を動かさずには置かない。心から心へと響いて来るのだ。 自分は、自分の愛する者を一人をも、真に幸福に仕てやる力は持たないのだ。小さい・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・自然の美に酔いては宇宙に磅たる悲哀を感得し、自然の寂寥に泣いては人の世の虚無を想い来世の華麗に憧憬す。胸に残るただ一つは花の下にて春死なんの願いである。西行はかく超越を極めた。しかれども霊的執着は薄弱である。彼の蹈む人道は誠に責任を無視して・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫