・・・ 数珠の玉をたぐり寄せるようなバッハのフーガ。それを、寿子はそれこそ数珠の玉をたぐるように、何度も何度も弾き、弾かねばならなかった。父はいつまでたっても「出来た」 と言ってくれなかった。「喧しいね」 と、母親の礼子は吐き・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・で、自然と同窓生もこの人を仲間はずれにはしながらも内は尊敬するようになって、甚だしい茶目吉一、二人のほかは、無言の同情を寄せるに吝ではなかった。 ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛み・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・さもなければ、君、誰がこんな忠告なぞするものか、実際君の苦しい有様を見ると、僕は大に同情を寄せる。まあ僕は哭きたいような気が起る。真実に苦しんで見たものでなければ、苦しんで居る人の心地は解らないからね。そこだ。もし君が僕の言うことを聞く気が・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・東京の叔父さん達とも相談した上で、お前を呼び寄せるで。よしか。お母さんの側が一番よからず」 とおげんが言ったが、娘の方では答えなかった。お新の心は母親の言うことよりも、煙草の方にあるらしかった。 お新は母親のためにも煙草を吸いつけて・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・正木未亡人は宗教に心を寄せるように成って、先生の奥さんと一緒に讃美歌の本を開けていた。先生は哥林多後書の第五章の一節を読んだ。亡くなった生徒の為に先生が弔いの言葉を述べた時は、年をとった母親が聖書を手にして泣いた。 士族地の墓地まで、し・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫ってくる黄昏の色を、急がしい機の音が招き寄せる。「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あたりは見るうちに薄暗くなる。女の人がちょっと出て行って、今度帰って坐った時に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・Kは、まともに顔をちか寄せる。「どう、って。」私は顔をしかめる。「きれい?」よそのひとのような感じで、「わかく見える?」 私は、殴りつけたく思う。「K、そんなに、さびしいのか。K、おぼえて置くがいい。Kは、良妻賢母で、それか・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・ 汽車でアーヴルに着いてすっかり港町の気分に包まれる、あの場面のいろいろな音色をもった汽笛の音、起重機の鎖の音などの配列が実によくできていて、ほんとうに波止場に寄せる潮のにおいをかぐような気持ちを起こさせる。発声映画の精髄をつかんだもの・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・それらの暗示のどれでも追求して行くとほとんど無限な思索の連鎖をたぐり寄せる事ができた。そしてそれらの考えがほとんど天啓ででもあるように強く明らかに、無条件に真であって、しかもいずれもが新しい卓見ででもあるように彼には思われた。新聞の三面記事・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客をして気兼をしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思で脱却した旧い波の特質・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫