・・・いや、むしろ積極的に、彼女が密かに抱いていた希望、――たといいかにはかなくとも、やはり希望には違いない、万一を期する心もちを打ち砕いたのも同様だった。男は道人がほのめかせたように、実際生きていないのであろうか? そう云えば彼女が住んでいた町・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・欧化気分がマダ残っていたとはいえ、沼南がこの極彩色の夫人と衆人環視の中でさえも綢繆纏綿するのを苦笑して窃かに沼南の名誉のため危むものもあった。果然、沼南が外遊の途に上ってマダ半年と経たない中に余り面白くない噂がポツポツ聞えて来た。アアいう人・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・訴たえることは出来ず、母からは取返えすことも出来ないなら、窃かに自分で弁償するより外の手段はない。八千円ばかりの金高から百円を帳面で胡魔化すことは、たとい自分に為し得ても、直ぐ後で発覚る。又自分にはさる不正なことは思ってみるだけでも身が戦え・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 或時は断然倉蔵に頼んで窃かに文を送り、我情のままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破って了った。こういう風で十日ばかり経った。或日細川は学校を終えて四時頃、丘の麓を例・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・狼の多かりしなるべく、今もなお折ふしは見ゆというのみか、此山にては月々十九日に飯生酒など本社より八町ほど隔たりたるところに供置きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃かに語り合いつつ、好きほどに酒杯を返し・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・また一方、毒瓦斯の出ない工場にはまた色々別の危険が潜伏していて、そうして密かに犠牲者の油断のすきを狙って爪を研いでいるであろう。それで、用心のいい人は毒瓦斯に充ちた工場で平気で働き、不用心な人は大地で躓いてすべって頭を割るのであろう。・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・つまり私が、わざわざ自分の病気をわるくして長引かしては密かに喜んだりする一種の精神病者に似た心理状態にあるという事を巧みに暗示すると云うよりはむしろ露骨に押しつけようというのであった。自分はQに云われる前から自分の頭の奥底にどこかこのような・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・事によると彼もさきが短くなった兆ではないかと密かに心配している友人もある。そのせいでもあるまいが、彼がこの頃年賀状の効能の一つとして挙げているのは、それが死んだ時の通知先名簿の代用になるという事である。実際彼の場合にはこれが非常に役立つに相・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・我輩窃かに案ずるに、かの伊奘諾尊、伊奘冊尊、またはアダム、イーブの如きも、必ずこの夫婦の徳義を修めて幸福円満なりしことならんと信ずるのみ。 されば人生の道徳は夫婦の間に始まり、夫婦以前道徳なく、夫婦以後始めてその要を感ずることなれば、こ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・たとえ少数の商人が、巧智に長けた眼を窃かに働かして旅人の財布を軽めるにもせよ。「奈良」の人々は決して劇しい生活の準備などはしないでしょう。「奈良」は、鹿が路傍に遊ぶ所です。そして古代芸術の永久に保存される所、人が永久に平安に暮せる所でし・・・ 宮本百合子 「「奈良」に遊びて」
出典:青空文庫