・・・「ここを登りつめた空地ね、あすこから富士がよく見えたんだよ」と自分は言った。 富士がよく見えたのも立春までであった。午前は雪に被われ陽に輝いた姿が丹沢山の上に見えていた。夕方になって陽がかなたへ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」同十八日――「月を蹈んで散歩す、青煙地を這い月光林に砕く」同十九日――「天晴・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・北より南へ富士河、西より東へ早河、此は後也。前に西より東へ波木井河の中に一つの滝あり、身延河と名づけたり。中天竺の鷲峰を此処に移せるか。はた又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ。此の四山四河の中に手の広さ程の平らかなる処あり。爰に庵室を結んで天雨・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢う、共に奥州にての名勝なり。 十七日、朝早く起き出でたるに足傷みて立つこと叶わず、心を決して車に乗じて馳せたり。郡山、好地、花巻、黒沢尻、金が崎、水沢、前沢を歴てようやく一ノ関に着す。こ・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・葛城の神を駆使したり、前鬼後鬼を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を銕鉢へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は孔雀明王咒を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・から抑制して、なむ誠実なくては叶うまいと伏眼になって小さく片隅に坐り、先輩の顔色ばかりを伺って、おとなしい素直な、いい子という事になって、せっせとお手本の四君子やら、ほてい様やら、朝日に鶴、田子の浦の富士などを勉強いたし、まだまだ私は駄目で・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・「あれは、岩木山だ。富士山に似ているっていうので、津軽富士。」私は苦笑しながら説明していた。なんの情熱も無い。「こっちの低い山脈は、ぼんじゅ山脈というのだ。あれが馬禿山だ。」実に、投げやりな、いい加減な説明だった。 ここがわしの生れ・・・ 太宰治 「故郷」
・・・や、富士が見える。」私のほうを振りかえって、「まっすぐに見える。ごらんなさい。昔とおんなじだ。」 私は、先刻から、たまらなかった。「ね、かえろうよ。いけないよ。ここでは酒も呑めないよ。もうわかったから、かえりましょう。」不気嫌に・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透き徹っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・それから計算してみると、大垣から見た山頂の仰角は、相当に大きく、たとえば、江の島から富士を見るよりは少し大きいくらいである。従って大垣道から見て、この山はかなり顕著な目標物でなければならない。もっとも伊吹以北の峰つづきには、やはり千メートル・・・ 寺田寅彦 「伊吹山の句について」
出典:青空文庫