・・・『叔父さんあっちは大変寒いところだというじゃアありませんか』とお常は自分の足袋の底を刺しながら言いぬ。『なに吉さんはあの身体だもの寒にあてられるような事もあるまい』と叔母は針の目を通しながら言えり。『イヤそうも言えない随分ひどい・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 寒い街を歩いて夕刊売りの娘を見た。無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。だが自分から銅貨を受取ったときの彼女の悲しそうな目なざしは何だろう。道々いろいろなことが考えられる。理想的社会の建設――こうしたことまで思い及ぼされるようでな・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・肺臓まで凍りつきそうな寒い風が吹きぬけて行った。彼は、その軒の下で暫らく佇んでいた。「ガーリヤ!」 そして、また、硝子を叩いた。「何?」 女が硝子窓の向うから顔を見せた。唇の間に白い歯がのぞいている。それがひどく愛嬌を持って・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・と思わず小声で言った時、夕風が一ト筋さっと流れて、客は身体の何処かが寒いような気がした。捨ててしまっても勿体ない、取ろうかとすれば水中の主が生命がけで執念深く握っているのでした。躊躇のさまを見て吉はまた声をかけました。 「それは旦那、お・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 出廷 寒い冬の朝、看守が覗きから眼だけを出して、「今日は出廷だぜ。」 と云った。 飯を食ってから、俺は監房を出て、看守の控室に連れて行かれた。皆は火鉢の縁に両足をかけて、あたっていた。「火」を見たのは、・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・殿「続いて寒いから雪催しで有るの」七「へえ」殿「何だえ……御覧なさい、あの通りで……これ誰か七兵衞に浪々酌をしてやれ、膳を早く……まア/\これへ……えゝ此の御方は下谷の金田様だ、存じているか、これから御贔屓になってお屋敷へ出んけ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・ 寒い、寒い日が間もなくやって来るように成った。待っても、待っても、熊吉は姉を迎えに来てくれなかった。見舞に来る親戚の足も次第に遠くなって、直次も、直次の娘も、めったに養生園へは顔を見せなかった。おげんは小山の家の方で毎年漬物の用意をす・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
一 むかし、アメリカの或小さな町に、人のいい、はたらきものの肉屋がいました。冬の半の或寒い朝のことでした。外は、ひどい風が雨を横なぐりにふきつけて、びゅうびゅうあれつづけています。人々は、こうもりのえに・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・二月、寒いしずかな夜である。工場の小路で、酔漢の荒い言葉が、突然起った。私は、耳をすました。 ――ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無え。I can speak English. ・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・それどころか、冬の寒い夕暮れ、わざわざ廻り路をしてその女の家を突き留めたことがある。千駄谷の田畝の西の隅で、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家、その総領娘であることをよく知っている。眉の美しい、色の白い頬の豊かな、笑う時言うに言われぬ表情をその・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫