・・・が退却して寒暖計は一ととびに九十五度から六十度に下がってしまったのである。 父が亡くなった翌年の夏、郷里の家を畳んで母と長女を連れ、陸路琴平高松を経て岡山で一泊したその晩も暑かった。宿の三階から見下ろす一町くらい先のある家で、夜更けるま・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・父の最後の病床にその枕もと近く氷柱を置いて扇風器がかけてあった。寒暖計は九十余度を越して忘れ難い暑い日であった。丑女はその氷柱をのせたトタン張りの箱の中にとけてたまった水を小皿でしゃくっては飲んでいた。そんなものを飲んではいけないと言って制・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・冷熱の感覚はその当人の状態にもよりまた温度以外にその物体の伝導度によるのである。寒暖計の示度によらないで冷温を言う場合にはその人によってまるでちがった判定を下す事になる。これでは普遍的の事実というものは成り立たぬ。また甲乙二物体の温度の差で・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・天気がどんなでも一尺差はやはり一尺差であって、呉服商が一々寒暖計と相談する必要がない。物理学者が尺度の比較をする時には寒暖計を八かましく云っても、天王星やシリアスの位置を帳面につける必要はまだない。もしもそうでなかったらたとえ一メートルの標・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・枡を持ち出して、反物の尺を取ってやるから、さあ持って来いと号令を下したって誰も号令に応ずるものはありません。寒暖計を眺めて、どうもあの山の高さはよほどあるよと云う連中は、寒暖計を験温器の代りにして逆上の程度でも計ったらよかろうと思う。もっと・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・神代の水も華氏の寒暖計二百十二度の熱に逢うて沸騰し、明治年間の水もまた、これに同じ。西洋の蒸気も東洋の蒸気も、その膨脹の力は異ならず。亜米利加の人がモルヒネを多量に服して死すれば、日本人もまた、これを服して死すべし。これを物理の原則といい、・・・ 福沢諭吉 「物理学の要用」
・・・机の上には寒暖計があり。只今八十度強です。私は仕事部屋に、寒暖計だの湿度計だの磁石だのよく切れるハサミ、ナイフだの欲しい。今は寒暖計だけ。こういう程度に直接生活的な器は何だか生活慾を刺戟していい心持です。ところが時計はチクタクの大きく聴える・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 私の机の上に一寸想像おできにならない物品がふえました。寒暖計。今五十度です。林町の母の臨終の枕元にあったものの由です。というのは私はその時、迚も寒暖計などは目に入れる余裕がなかったから。この頃の朝六時前後は何度かしら。○下何度かしら。・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫