・・・それはある娘を対象とした、私の子供らしい然も激しい情熱でした。それの非常な不結果であったことはあなたも少しは知っていられるでしょう。 ――父の苦り切った声がその不面目な事件の結果を宣告しました。私は急にあたりが息苦しくなりました。自分で・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・価値は主観から独立な真の対象であって、価値現象として主観の感情状態や、欲求とは相違する。さまざまな果実の美味は果実の種類によって性質的に異なり、同一の美味が主観の感覚によってさまざまに感じられるのではない。美味そのものの相違である。その如く・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・そして対象は単一的であって並列的ではない。美的狩猟はならべ描くことによって情緒をますのだ。 結婚前の青年、特に学窓にある青年にとって、恋愛とはまず精神的思慕であり、生命的憧憬でなければならぬ。美しい娘の中に自分の衷なる精神の花を皆投げこ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そして、広く行き渡ったにもかゝわらず、いまだ文学的批判の対象として取り上げられなかったらしいのは、従来の文学批評家の文人気質によるというよりは、愛国的熱情があまって真実を追求しようとする意力の欠如が、文学としての価値を低めているがためだろう・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・手管というのは、たとえばこんな工合いの術のことであって、ひとりの作家の真摯な精進の対象である。私もまた、そのような手管はいやでなく、この赤児の思い出話にひとつ巧みな手管を用いようと企てたのである。 ここらで私は、私の態度をはっきりきめて・・・ 太宰治 「玩具」
・・・闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。」「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。「あ、」と固パンは頭のうしろを掻き、「・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・ これに反してアインシュタインの取扱った対象は抽象された時と空間であって、使った道具は数学である。すべてが論理的に明瞭なものであるにかかわらず、使っている「国語」が世人に親しくないために、その国語に熟しない人には容易に食い付けない。それ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・旅行者が特別な興味をもつ対象の前にしばらく歩を止めようとするのを、そんなものはつまらないから見るのじゃないと世話をやく場合もある。つまるとつまらないとが明らかに「相対的」のものである場合にはこれは困る。案内者が善意であるだけにいっそう困るわ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ ローマンチックの道徳は何となしに対象物をして大きく偉く感じさせる。ナチュラリズムの道徳は、自己の欠点を暴露させる正直な可愛らしい所がある。 ローマンチシズムの芸術は情緒的エモーショナルで人をして偉く大きく思わせるし、ナチュラリズム・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・云い換えれば研究の対象をどこまでも自分から離して眼の前に置こうとする。徹頭徹尾観察者である。観察者である以上は相手と同化する事はほとんど望めない。相手を研究し相手を知るというのは離れて知るの意でその物になりすましてこれを体得するのとは全く趣・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
出典:青空文庫